21:50から。
やっと6連勤の後の2連休。ただ、木曜日の午前中は仕事になりそう。
別に良いんだが、スケジュール調整(ちょうせい)のスキルを習得(しゅうとく)しないといけないなという項目。そこしかないならしょうがないが、そこじゃなくても良いところで予定を作ってしまったのが調整力不足だなと。
さて。
14時出勤にもかかわらず8時前に起きて僕のお弁当の準備をしている満月さんの生活音によって体を起こす。本日の朝のドラマは「アットホームダット」。相変わらずのルーティンのお手洗いからの1服、2服。本日は外気が冷えている。風も強い。ただ、空には雲がほとんどない。満月さんに「冬だな」と言うと、「この前は春だと言っていたじゃない」と言われる。季節は時間の流れによって切り替わるものではなく、方位(ほうい)と同じようなものだろうなとふと思う。春夏秋冬と進むのではなく冬春とか、冬冬春とか。
満月さんと、明日の休日について少し話す。車で岡崎の梅まつりに行くのか、電車で東岡崎駅の近くで僕が見つけた古本屋さんに行くか。お互い特に主張はなく一緒に外出すれば楽しいから何が決定されても問題がない。
満月さんがおにぎらずとスープを完成させた出勤2分前。おにぎらずは冷凍の唐揚げとレタスと卵焼きだったか。スープはネギとほうれん草の顆粒(かりゅう)コンソメ仕立て。沸騰させた水をスープジャーに入れて食べる頃に完成しているという放置系アプリみたいな効率性(こうりつせい)。
満月さんを残して出発。風が強いし道中の行き交う人が多い。冬春で暦的に春に近くなってきたから色々イベント事があるのだろうか。曲がり角で行き交った妙齢(みょうれい)の自転車の女性が、大幅にのけぞって、こけはしなかったけど凄くびっくりされた。そんなに危険運転はしていないつもり。ちゃんと幅はとったし、スピードも落としたし。おそらくこの角から人が出てくる想像をしていなかったのだと思われる。いや、僕のオーラが凄かったのかも(ファンタジー)。
その後もなんだか人が多いなと観測しつつ、春の花を愛でつつ。気になったというか、目に入ったのは、ある一画のゴミ捨て場のゴミがいつもよりモリモリだったところ。いつもは普通だから意識に上らなかったのだろうが、本日は3段に積まれていた。引っ越しでもあったのかな。
会社に到着。先輩女子が先に着いていた。相変わらず世界に対して愚痴(ぐち)が多い。花粉症(かふんしょう)なのはお気の毒。そのすぐあとに店長も出勤してくる。店長は調子によって転調(てんちょう)しない人だからナカに何が潜(ひそ)んでいるのかが分からない。
はい、ここまでで起きてから90分くらいのお話。
合っているよな。8時に起きて9時半には会社に着いている。
個人情報とコンプラを除外したとしてもこの感じで1日分続けられる。
1万文字とは言わずとも、毎日これで書くだけで6千文字くらいはいきそう。
この時間を凝縮させて書いてみようかなと思ったのは今朝、かいつまんで日記パートを省略しないことを極限化するとプルーストさんの「失われた時を求めて」みたいになるよなとふと思ったから。
書くことに困って書かなかった日というのはない。物理的に書ける時間がなかったり、心理的に文章脳に切り替えることができなかったりはあるのだが、読者に後押しされてという因果(いんが)も無く、気付けばもうどれくらい書いているか分からなくなるくらい書いている。
これはただの変人だから別にどうでも良い。
満月さん家のお母様とお父様とそれぞれ話していた30分くらい。
それぞれ別方向で話しが通じるもんで、話すことに苦が無い。
他人の人格とか経年(けいねん)おける未熟として決めつけないのが良い。
お父様とちょっとした仕事の話をするんだが、若干この場では僕が優位だから、何やらへりくだってくれるところとか、普通に考えるとおかしい。良く生き残れて来たのだという観測(かんそく)。
すげー徳が高い番(つがい)の下(もと)に生まれたからそれぞれ自由に生きられていているのだろうなという感。
好かれようとしないで生きるほどむしろ人生が上振れするという特殊だからかは知らない。
個人的な人生劇場として、人から好かれたいと思って動いたことがあんまりない気がする。
これでやると不具合が起こった経験則はある。昨日書いた頑張るの下りか。
僕は結構万人好きだけど、好意がきちんと回収できるという意味ではないから、言語上は興味と言い換えた方が適切な気がする。好意ってあくまで一緒の時間軸に存在するから起こる。あるいは、一方通行的に消費対象にすることも好きと言うよな。今だったら推しになるのか。
宵顔さんが文章を顕在(けんざい)しないもんで、観測対象というか僕の劇場上は存在しないというか世界線が交わらない人になってしまったけど、気にはしている。気にしているからといって、つぶやき場には煩わしくて居られないから行けない。
心に留まっているだけで、相手の現実が無いと交わらない。もう現実的な席は満月さんがとってしまったから、あくまで心の問題でしかない。
世界線としては、選ばれなかったのではなく、僕が選んだという方向。
仮に、何か現実が交わることがあったとしても一瞬でしかないだろうなと。
生活は満月さんと続いていって、縁側でコーヒー飲みながら煙草を吸う世界線を選んだもので。不満が時々出たとしても不足は無い生活。
正直に書くというのは、単なる僕の指針であって、誰もが正直に自分のことを書くべきという世界観ではない。盛っても良いし、他者の権威(けんい)を借りながら書いても良い。
何の権威も借りずに自分の言葉成分95%くらいで毎日書いているのはそうとうな変態。
いや、変態成分で言ったら100%か。
明日が休みなのでもう少し。
昨日現実の見え方みたいな話を書いた気がする。
現実って人それぞれだと言ってピンとこないのは、自分が見えたことが現実だという認識。
見えることが客観だという。
ただ、ここで思うのは、見えることには随分とバイアスがかかっているから、そもそも人はありのままの世界を観測できるような目と言うか意識を持ち合わせていない。
こういう視界はきっとありふれているのだろうけども、何が見えるかという視界が既に経験則に支配されているし、そこから観測を解釈したものが意識で見た世界であって、これが世界の客観だと認識できる時点でそうとう我がままの世界観だろうなと。
別に、この人生劇場で生きられる強度がある人は問題ないけれど。
むかしGREEでこういうことを書いたら、自分はちゃんと他人を見ていますという主観の人が居て、話が通じていないと思って、これ以上語ることはないなとなった。
自分の中に客観があると思っている人には話しが通じなくて放って置くか操縦するしかない、自分の外に客観があるという人も然りなのか。
満月さんに対しては結構満月さんの主観的な人生劇場を壊しうることも言えているから、一緒に生きている感じはある。
あと、なんかあった気がするが、まぁ良いか。
ここまで。
どんどん意味が分からない項目ばかり書いている気がするのだけど、ちゃんと着いて来られる人は居るのだろうか。
これが漂流文というテーマの醍醐味。
この辺で。
おやすみなさい。
良い夢を。