筋道

22:14から。

人は物理的に移動すると意識が過去に向いて動くのかもしれない。身体の移動に合わせたいけれど、記憶の移動先は過去にしかないもんで。

休日だが仕事の日と同じ時間に起きる。お互いあんまりいっぱい寝て幸せみたいな感覚はあんまりない。いや、満月さんはお布団大好き人間だが、それよりも休日に動かずに過ごしたという無為(むい)が嫌な模様。

8時に起床してすぐ洗濯を始め、満月さんはシャワーを浴びて身繕(みづくろ)いし、洗濯物を干してから9時過ぎには家を出る。

そこからラグーナ蒲郡に行って、満月さんの馴染みの海鮮料理屋さんで豪勢なブランチ。僕が日替わり定食B(海鮮丼、かき揚げ、フルーツ、切り干し大根の煮物、蟹汁)、満月さんが、焼きサンマ定食(フルーツ、エビ汁、切り干し大根)。ついでに僕は一番搾りを一杯(お母様に怒られる)。

前に行ったときはこのボリュームに多すぎてお腹いっぱいだったのだが、本日はなんだかペロッと食べてまだ胃腸に余裕があった。経年(けいねん)して食べる量が増えるというのも面白い現象(げんしょう)。ストレスで過食(かしょく)になっている訳ではないのに。

きっと食べる量とか時間を自分でコントロールできるようになってむしろ健康になっているのだろうな。という説。肌艶(つや)も良いらしいし、臓腑(ぞうふ)を無理させていない。肝臓(かんぞう)さんの声は聞こえてこないから健康診断(けんこうしんだん)の数値(すうち)に任せるしかない。

今のところ大丈夫だから変えていないだけであって、外から一般論として健康に悪いとか依存症(いぞんしょう)がと言われても論旨(ろんし)が明確(めいかく)でないからあんまり響(ひび)かないんだよな。これが人に迷惑(めいわく)をかけるようになったら変えるだろうし、僕の頑(かたく)なはあくまで人の迷惑にならない領域(りょういき)のお話。

変な話、いっぱい食べないと健康ではないという世界観がかなり苦手だった。今なら自分の胃腸の容量を越えるご飯を食べた方が逆に不健康だとしている。いっぱい食べないといけないのって、狩猟民族のDNAの名残(なご)りではなかろうか。食べられる時に食べておかないと、次にいつ食べられるか分からない、リスの頬袋(ほおぶくろ)みたいな話。でも、遺伝子の刻印(こくいん)として狩猟時代は万年レベルだし、色濃さでいうとあながちズレていないような。今のお仕事の食事時間、たしかにそんなDNAが思い出されるくらいの不規則(ふきそく)。

あと、高価な物が美味しいとか。

寿司ネタで一番好きなのはイカだし、定食屋さんに連れて行ってもらった幼少期、ざるうどんばかり食べていた。遠慮(えんりょ)しているのではと言われたこともあったが、たしかに遠慮はありつつ、その中で一番好きなのがたまたま安い物だったというだけ。

どうでも良いけど、繊細(せんさい)さんの本質は自分視点ではなく、他人視点がいつもあって、遠慮して生きなければならないという主観があることであって、遠慮はどれだけ世界を断捨離(だんしゃり)しても付きまとう。満月さんは自分が繊細さんだとアピールする人を苦手だと言うのだが、おそらく主観が過ぎるからだと思われる。なんちゃってなのか本当なのかの分類は、ご飯屋さんで税率が変わる店内飲食かテイクアウトかの境界線(きょうかいせん)くらい曖昧。

そういえば、繊細さんだと自認がある人と直に接したことはないのか。

僕は個人的に繊細傾向があると思っているが、だからといって世界に配慮(はいりょ)して欲しいなんて感覚はない。これは他の性質で相殺(そうさい)されているだけなのかも。人混み苦手だけど(だったけど)、もっと人居なくなれとは思わないし。

どうせ交友するなら、性質の共通項への共感とは無関係の個人同士が良い。

AIがnoteでINFJの人の記事を推してくるのだが、さっぱり共感できない。読み物として面白くは読めるけれど、自分はこういう人ですよという予防線(よぼうせん)を張るのはどうなのだろう。

いや、好きにしたら良い。苦言ではない。たしかにどういう人が書いているかが分かり易い。

ただ、分かり易いということは内容を読む前に生産者のバイアスが生じるということ。こう考えると、作者紹介って注意書きと近いのかな。

本日の続き。

岡崎の公園の梅林に行ってハッスル。植物成分が高いところは気分が上がる。

これも遺伝子レベルのDNAという説もありつつ、遠慮して世界を捉えなくて良いのが自然であるという説もある。

梅の品種(ひんしゅ)の名前を2つ覚えた。緑萼(りょくがく)と鶯宿(おうしゅく)。名前に意味があるとすぐ残る。前者は花が緑ではなくて黄色っぽいのだが、満月さん曰く枝部分が緑だからじゃない? と提言してたしかにそっちが緑だなとなった。後者は説明文に「実付きが良く」というフレーズがあって、鶯(うぐいす)が宿(やど)にするから繋(つな)げて音読みにしたのかなって。

その後は遊びつつ、お茶をしに行った。

「SAN」というタルト屋さん。狙っているのでは言われたが、メニューを見て僕が食べたいと思っただけ。「まんげつプリンタルト」。無茶苦茶美味しかった。

世界はどうやら連なっている。

夜ご飯は、「幸田食堂」だったか。

日記的日記を書いているといつまでも終わらないのでここまで。

やれやれ。

Kindle本で記憶力を鍛える本を見つけて半分くらい読んだ。

僕自身はあんまり記憶力に不自由がないし、無理に何かを覚えたいということもないから、必要に迫られてでなく、単なる趣味としての選択。

記憶するためにはどれだけ脳を騙(だま)すかというのはほんとそうだと思う。脳はなるべく省エネしたい人だし、自己の生命を維持するというか世界観が保持することしか主眼がないから、どれだけ主観的意識が何かを覚えようとしたところで却下されて省かれる項目が多い。面白いという主観だと脳は記憶せざるを得ないというのも分かる。新しく覚えないといけないことだと刻印されるから。

やっぱり人生劇場は繋がっているなと思うのは、記憶術の話ではなく、この筆者さんの世界観が出て来たフレーズ。「見えている世界は記憶でできている」というニュアンス。

素朴に考えれば当たり前。人間社会ってやたらめったら複雑化されているし観念(かんねん)化されているから、ありのままに世界を見るということはできない。記憶が蓄積(ちくせき)しているから、例えば飲食店とかコンビニで働いている人の苦悩(くのう)みたいなことが世界として認識できて、クレームを上げるとどれだけ影響(えいきょう)があるのかとか想像できる。

車の運転でも、助手席とか後部座席からみた車窓と運転席で見る世界は随分(ずいぶん)と違う。

客観的だと認識される世界としての現象がそれぞれの人の解釈より前にズレているのではというのが別視点から呈示される。れだけという量と、何をという質の記憶によって世界がどう見えるのかという認知のずれがあるという曖昧なのが人間。

たしかに記憶がないと世界で見える「もの」の用途が分からないし、意味が分からなければ抽象名詞としてか把握されない。人、建物、山。

自分のことを抽象名詞としてしか描いて居ない人が多いような気がするのだが、この風潮(ふうちょう)はなんのだろう。

でも、世の中の仕組みがどれだけ記憶になったとしても、世界は面白いという評価が変わらないから、どれだけ分かっても分からないこととして良いし、面白がれるのだろうなと。

例えば、読んでいる小説の結末をネタバレされても読んで居て面白ければ全部読むし、結婚という契約がなんとなく法律的ハリボテだと分かったところで近いうちに結婚するだろうし。

やべ、明日早く休日出勤しないといけないのに夜更かししてしまった。

要は、本日も楽しい一日だったということ。

おやすみなさい。

良い夢を。

PAGE TOP