22:04から。
本日はちょっとしたセルフ焼肉パーティ。たぶん胃もたれが起こるに違いないが美味しかった。センマイが良い。
非日常の対価は甘受すべき。
僕はどれだけお金持ちになっても毎日焼肉は胃腸的に無理。お金持ちになったら調味料とか食材を厳選して、調理は自分ですると思われる。単なる高価な食材をものを食べたところで一瞬で終わってしまうだけだし。
日常だと満月さんのおにぎりの方が絶対に美味しい、満月さんは金欠の食生活の繋ぎみたいな感覚だったかもしれないが、いまやどれだけ美味しくなるかという試行錯誤を研究している。豚バラ肉で巻いた焼きおにぎりの中に梅干を入れて
お母様は料理が苦手とのことで、別にパートナーに苦手なこと強いるつもりはないのだが、満月さんは、料理と創作が近いところにあるようで、時間があれば研究対象にできそう。これを好きというかはともかくだが、少なくとも苦手ではない。おそらく物を捨てるのは苦手だから、僕がカバーすれば良いかなという感じ。僕には来客は無いが満月さんにはありうるから、来客ありという世界線で日常を調(ととの)えないといけないのかもしれない。
でも、来客ベースで部屋を調える人って、あんまり自己に拠(よ)り所がない可能性。
僕も大学時代の1人暮らしの時は来た人に生活観が無いと言われるくらいに整(ととの)えていた。日々清掃していたかは忘れたが、自分の生活空間というより、いつ誰が来るか分からない空間としてのお部屋。この時はベッド。きしませたこともあった。
で、大学院時代は来客がほとんどない環境だったもんで、本ばかりが貯まっていく。
それでも良いという猛者(もさ)が数人居たがそれでも良いとしたのが満月さん。
部屋の中身は頭の中。
あわよくば本を追加していきたいが、寧ろ循環(じゅんかん)なのかもなと思う。
本棚に格納(かくのう)して、自分はこういう人物ですよみたいなマウントは一切取る気がない。本棚を背景にして配信している某メンタリストさんとかも居るが、本棚を公開したところで別に自己紹介にはならんよなという立場。
僕の本棚はほとんど積読がない段ボール10箱くらいに詰まっている。
ちょっと逸れて、というか人生劇場的には本筋。
新人さんが入ってきた。
僕が相手をするという前情報だったのだが、エリアラウンダーの人がやってきてあれこれやってくれたし、先輩女子がきちんと教えていて、出る幕が無かった。僕の時には全くこういうのは無かった気がする。別に不公平だとは思わない。
世界に対して不公平を言い出したら無限の不満になるし、教える人も自分の仕事があるのが当たり前だし、あんまり手取り足取り教えられたも申し訳なくなる。
教える側としても何が分からないかということが分からないと教えようが無いという。一方的に教育するのであれば相手は全く知らないというということで1からになるが、学校じゃないのだから、全て1からにはならない。最低限ガイドラインを読み取れるかどうかだし、ガイドラインをかみ砕いて説明できる専門家もあんまり居ない。
個人的には、この新人さん、ちょっとだけ苦手な印象。
はきはきしているし、外から見た印象は良いと思うのだが、なんだか自己主張が強い感じ。
自己主張が強いって要はあんまり自己の存在に安心できていないということだから、自己を守るために他責にして良いという世界観でもありそう。
ついでに言うと、自分の誰かに対する第一印象を全く信じていない。自分とは関わっていない誰かの印象は経験則としての過去語りでしかなくて、前情報はともかくとして、実際に同じ空間で関わった第2印象くらいが本筋なのだろうなと。
新人さんも馴染んだ後にどうなるかは未知だし。
第一印象が正解だったと決め切れる人は、他人を自分の世界に無理矢理やり込めているかもしれない。別にこれでも良いと思う。
なんでも良いのに文章を構築(こうちく)できるってだいぶやばげ。
やれやれ。
満月さんが「流浪の月」を本日読み切って映画を一緒に見た感想もあるのだが、省略したい。
この作品に深堀りできる要素はあまりない。社会的な「属性(ぞくせい)」で言えば色々「見解(けんかい)」はあると思うけども、見解と考察は全然べつもの。
ふと、朝のまったりタイムに満月さんが、「言葉って時間を孕(はら)む」ということを零(こぼ)す。私と言った時にはその私は過去だという日本語の不自由みたいな話。
たしかに日本語の主語って、時間軸が曖昧(あいまい)ではある。
全部過去寄り。
時間の方向性を決めるために助動詞とか助詞で時間と対象を補助というか固定するのだろうけど。
「私」ないし「I」で表現した自分は、今観測した自分より過去の自分であるということ。
自己紹介が割と時間軸が曖昧な人が多いのは、何か人から固定的に見られたくないとう無意識なのかもな。若い人は自分の年齢をピンポイントで書くけれど、30代40代になってくると、アラサーとかアラフィフとかで自分の年齢を曖昧にする。
いや、ここは別にどうでも良くて、個人的にはなんでSNS界の物理的な世界に来てそこまで物理的な自己紹介をしなくちゃならないのだろうという世界観が気になるだけ。何歳だろうが面白い文章を書ければ属性なんて関係ないような。
色々属性から書き出すのは、アピールではなくて予防線なのかもしれない。
僕の文章というか、僕の人生劇場で誰かを傷つけたとしても、僕がこういう性質だからなんてことは無く、生身の僕が相手をきちんと傷つけている。色々名前が付いたところで、人を傷つけることが自分の中で当たり前になっている人はやばい。
あと、満月さんが、「満足は無いよな」ということをまったりタイムで会話が起こる。
曰く、満足は一瞬でしかないから、現実的には継続するものではないとうニュアンス。
どこからこの発想が起こったのかは知らないけれど、たしかに満足も不満も、一瞬の出来事でしかなくて、この刹那(せつな)の時間軸でだけしか生きられないのはもったいない。
この軸で「人をやたらと怒らせてしまう人」の時間軸について考えた。
満月さんの地雷みたいなところもバンバン踏んでいるのだが、あんまり怒られない。
これって、共通項みたいな表層ではなくて、人生劇場の舞台が一致しているからではないかと言う説。
僕を怒らせる人はもう居ないと思うけれど、満月さんは僕を怒らせてみたいという探究心がちょっとありそう。そこ探究すると共同生活を合理的な意味無く放棄(ほうき)するとかになりそうだが、本を読み過ぎて家事が疎(おろそ)かになったとかはすげぇ合理的だとする不合理的な世界観。もちろん、創作もアリ。
こういうパートナーが良いなぁと思う人も居るかもしれないが、この関係は自分が不合理であるのと同じように、相手の不合理も認証(にんしょう)しないといけない。
別に浮気は面倒だからしないけれど、団らんの時間にお風呂行って読書して、ご飯食べながら日記を書くという不合理な時間を赦せるか。
たぶん、自己を承認されたい人って、自分が合理的に世界を認識している。
この合理は別に社会一般に認証されている世界観ではなく、その人の中で理屈に適っているかどうか。この理屈の前提って別に科学的に証明されている裏がある訳でもないのに、当人の中では神様の視点になっている。
これが人の認識の違いなのだろうなという話に続けたかったのだが、本日はここまで。
認識が違うからこそ面白いという結論だから、暗がりの話でもない。
はい。
おやすみなさい。
良い夢を。