たらしたらされ

22:11から。

本日の晩御飯は手羽元と大根の煮物、三日目のポテサラの下にリーフレタス、レンチンして火を通し、オリーブオイルと塩コショウで和えた茄子の上に昨日作ったミートソースととろけるチーズをかけてオーブンで焼いた副菜。満月さんは茄子が好き。

この家のグリルの扱い方にも慣れたようで、きちんととろけるチーズに焼き目が付いた模様。証拠画像は面倒なので撮らない。想像にお任せ。まだ熱いから食べていないけれど、間違いなく美味しいに違いない。

さて。

最近結構夜更かしをしている。日記時間が長引ているのは、搔き出さなければならないことが多い=調子が悪いのではという説だったのだが、昨日3000発(2人独自の語用で文字数を「発」としている)以上書いたと言ったら、満月さんには「調子が良いじゃん」と言われた。書き出された(誤字ではない、念のため)文字数が多いということであって、読み手からすれば、そういう見解になるのだろう。

たしかに、文章界において更新しないと存在が継続しないし、1回1回の文字数=文章界での自由な動きであると言える。こんなのはもちろん現実界できちんと過ごせていないとできないのは当然。

満月さんは僕の夜の時間を増やすために朝の時間を費やして洗濯機を回してくれた。

自分も朝9時出発なのになんとも有難い。

ありがとうございますって、漢字にすると在り難うございますだと思うのだが、どうなのだろう。1人だけでは存在しえない世界に対する感謝。定型文でひらがなにしていると形骸化(けいがいか)されるのだが、てきとーに扱える言葉でもないような。

こういう発想(はっそう)が起こる時点で、随分(ずいぶん)と調子が良い。

満月さんのお父様とLINEをしていて、満月さんから「友達じゃん」と言われた。

たしかに、肉親より頻繁(ひんぱん)にやっているなと思うと、不公平だから自分の肉親にも交信を振る時間を作らなきゃなという気分になった。この人格になれたのは最初の環境である家族在りきだし、母親にはこれだけ使い勝手が良い器(からだ)に生んでもらったわ訳だし。

ただ、親にやたらと感謝しないとか家族を大事にしないといけないという思想は苦手。

これって、親の苦労(くろう)を子供も分担(ぶんたん)しろよみたいな、ニーチェさん風に言えばルサンチマンっぽいから。そんなことより、個人対個人で関わろうかという話。

もう皆いいオトナだから、きっと昔の話はどうでも良くなっているという想像。

ここは母親というより姉と妹の関わり。僕は長男だったから、何か色々別の扱いをされていたのだが、愛を受けたとは自認(じにん)していない。でも、おそらく姉と妹は僕に愛が一番受けられて育ったと認識されていると思われる。

これって愛が数値化(すうちか)できるものだという認識なんだよな。

要は金銭=愛みたいな数式。個人的には愛って行為だから、その行為の中に数値化されるものがあったとしても、本質は数値では測(はか)れない。

数値で捉えることができれば分かりやすいけれど、カウントしたところで愛の証拠にはならないと思われる。かの有名なフロムさんも、「愛」ではなく、「愛するということ」というタイトルを付けたし、名詞ではなく動詞なのだよな。気持ちの概念(がいねん)でもない。

そういえば、詩の本で「日本の詩人は想像力とか思索(しさく)力が落ちると、言葉をこねくり回し出す」というフレーズがあった。詩人に必要なのは言葉遊びというか言葉に固執(こしつ)することではなく、まずもって世界をどう把握するかがあって、それに言葉を当てるかどうか。言葉の完成度の前の話。

これって、詩人だけではなく、日本語圏(けん)の人に一般化しても良いのかもしれないなとふと思った。日本語って書き手がどれだけ整(ととの)えたところで読み手に丸投げされる部分が多いし、書き手としてもどれだけ読み手の共感を煽(あお)るのかという技術(ぎじゅつ)問題になるのかもしれない。

いや、僕のは一筆書きであとは全部読み手に丸投げだから、どれでだけ勝手に読み取って貰っても問題ない。どう読み取られても在りがたいことだが、僕の人格がこういうのだと決めつけられることだけは心外かもしれない。いや、別にサイコパスとかHSPとかINFJとかで良いのだけど、その分類に準じて生きている訳でもないので。

お仕事の話を最後に持ってくるのは構成的に初なのだが、面白かったから。

本日は意識的に「人たらし」を発動したと思う。

別に相手に無理を強いる訳でもないし、法令順守(ほうれいじゅんしゅ)だし、単なる「信頼できる人」として認定させること。

きっちり営業したなぁという自認があるだけのこと。

店長も「人たらし」だが、店長は自分の劇場に相手を参加させる手法で、僕は店長と同じ知識と経験が合ってもそういうことはできない、というかしない。僕のは相手の劇場の中にぬるっと参加して、登場人物になって、道を示す標識(ひょうしき)になるという感じ。

主役級にはならないように調整するのが微妙な塩梅(あんばい)。

僕が自分の技術とか人格によって成果を出したという功績(こうせき)では自分に対する賞状にはならないから自分の意識に対する調整も必要。

その為に動いているという意識があると鈍くなる。

性質が天邪鬼(あまのじゃく)なもんで。

そんなことより今日のお仕事が楽しかったのは、結構(けっこう)自由に動けたよなということ。仕事上のマニュアルで使わない語用をいっぱい遣っていたし、自分を出せばだいたい成功するのではという感触(かんしょく)があった。見えている気になることはいっぱいあるから、別に無駄に相手を褒めなくても、相手の話を掘り下げることはできそう。

知らないことに対しての不備は仕方ないからスルー。知らないことは抜けるのが当たり前で、知っているのに抜けてしまっていたことを不備としないと新しいお仕事ではやっていけない。フリーランスになったら逆に上の指示がないから自分で想像しうることを全部準備できるから実は楽なのかもしれない。

お仕事の時って素朴な想像力を制限する場になる。ならない?

まぁ、情報提供も共感も目的としていない文章が売れるはずがないから、フリーランスのライターは無理だろうな。

本日の文章は外からどうかというお話ではなく、内側で滅茶苦茶(めちゃくちゃ)楽しんでいるのだろうなというだけのこと。

基本的に外を気にすることはデフォルトであって、内側を楽しんでいるのを出せる領域(りょういき)がまぁまぁ広がってきたということなのだろうな。

僕の素朴は人から見れば「意味が分からない人」と表現するのが正しい。

合理的な繋がりが無くても生きられるし、なんなら人には一目を置かれることもあるのは僕から見ると意味が分からないことだけど、そういう目には何か合理的な理由があるだろうと想像する。

今のところ、僕の文章を読み続けて何か読み手の人生劇場にとって意味があるのかという想像はできないのだが。別に自分の文章は在りがたいことででき上がっているし、これ自体を卑下(ひげ)することは無い。

ただ、読んでいて本当に面白いように書かれているのかとなると、まぁまぁ疑問。

知ったこっちゃないと完全に分離(ぶんり)できないからメタっぽくなるし、なるべく誤字脱字なく、読んでいる人がリズム感で読めるように書かれている。

人に読まれない日記を書く需要(じゅよう)もない。

ほんとに隠したいことなら、自分の中でも言語化しないし。

よし、今日も3000発越え。

そろそろ洗い物をして寝るのでここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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