解き放たれ

22:48から。

さくっと寝たい気分もある。面白いことを書いておきたいという気分もあって半々。これを選択するのは理由じゃなくて、運な気がする。実感として理由によって選択されているとは思えないのだよな。

運が良いというのは、自分の内部の動きの運が良い方にブレているということなのでは。

さて。

昨日も今日も学ぶわ食うわ遊ぶわで楽しんだ。

昨日の午前中。若干仕事をしつつ、宅建のテキストを2時間くらいで1周した。きっちり覚えていくつもりがないので、テレビとパソコンでYouTubeの考察動画やらなんやらを流しつつ。

Kindle読み放題の本で脳は世界を曖昧(あいまい)に認識するという話があった。正確に認識(にんしき)し過ぎると処理落ちするというか、同じ物を違う物として認識してしまうという生活上の知恵(ちえ)。AIの顔認識は精度が高すぎて髭(ひげ)が生えると他人として認識されるみたいな。

曖昧でなくするためには脳を騙(だま)して曖昧な認識だと危機があると思い込ませないといけない。これをする為の手法として、セルフで失敗するというやり方があって面白かった。何かの本を読んでいるときに、本気で先を予測して、違っていたらその違いを自覚していく感じ。あんまりやったことなかったから、採り入れよう。

お仕事はちょっと調整(ちょうせい)に失敗(しっぱい)した感がある。両者の言い分は分かるのだが、どちらも自分側の立場のことしか考えていないよなと。一番大事なのはそこじゃないと思うから、その筋でなんとか収めたい。一番大事なのは両者の仕事上の立場ではなく、その間に居る実際そこに住む人の気持ち。

仕事上で慣れてくると対象顧客(たいしょうこきゃく)がどんどんと物というか数字に見えてくるのは致し仕方ないのは分かる。僕は慣れれば慣れるほど仕事上の余裕ができて、対象顧客が物ではなく人として見えるようになってきているのだが、これはおそらく僕がおかしい。僕が「人たらし」である構造(こうぞう)がちょっとずつ見えてくる。

午後。弟勇者が迎えに来てくれて、3人でラーメンを食べてゲーセンに行って、美猫の飼い主の中性的な満月さんと弟勇者の共通の友人を拾って帰宅。お母様が作ってくれたカレイの煮付けがやたらとうまい。

3リットルのビールを飲み干し、お母様が浸けた自家製梅酒をいただきつつ、好き勝手に楽しむ。昔はお酒を呑んだら本性が出るという俗説(いや、定説なのかも)で、飲んだら何かやらかすかなと心配していたけども、最近は全くそういう心配がない。楽しみ方が内側から外側に拡がって、発話量が増えるくらい。

お酒に強くなったというより、無理して飲むことが無くなったからだろうな。

いや、無理して飲まずに3リットルとかどういうことだという感じだが、昔は酔い状態を無理矢理引き出して話すようにしていた節がある。その当時に付き合っていた2番目に長く過ごした恋人さんは、僕のことを「ほんとうは酒に弱いのに無理して大量に飲んでいる人」と評した。たしかにこの目、全然間違っていなかったと思う。

参加したいと思っていない場で無理矢理楽しむためのお酒にはきっと弱かった。

今はどれだけ呑んでも、楽しく喋られる場で無かったから大人しくしている。

楽しく喋ることができるかどうか。

他の人がどう考えているかは分からない。個人的には「自分の話をきちんと聞いてくれること」だとしている人が多いのだろうなと想像している。僕の中では自分の話を聞いて共感してくれることではなく、世界認識の次元(じげん)が近いと話していて楽しい。別に僕は自分のことを話したい訳ではなくて、会話で相互認識が拡がると楽しい。

僕が自分のことを語るのは、それを知って欲しいという意識ではなく、共通の基礎としての場所みたいな前置きかなというくらい。どういう人か分からないとその人の話を聞くかどうか判断できないという人は結構いる。これって説得力の話ではなく、それよりももっと前のこと。

個人的には、自分にとって発見なり進歩なりがあることであれば、それを発した人が後(のち)に一般的意味において悪い人と判明(はんめい)したとしても、先生認定で良いと思っている。こういうのはきっとサイコパス気質(きしつ)。

美猫の飼い主さんと営業トークをしていて面白かった。仕事モードのシビアな話がとても面白い。本日はまだ先があるから省略(しょうりゃく)。

ついでに飼い猫が美人過ぎた。酒臭いもんで2匹ともあんまり懐いてくれなかったが、シャーシャー言いながら撫でさせてくれた。一回泊まってみたい笑。

本日。

満月さんと弟勇者と薫さんが会話しているのをBGMに二度寝。

この会話をもっと僕がきいておけば、あんな騒動(そうどう)にはならなかったかもしれない。

ともあれ。

昼前に起きてサンドウィッチを食べてお風呂に入り、サクラダファミリア展に行った。

個人的にちょっと楽しみしていたのだが、期待外れというか、全然ゆっくり見られずに2人して5分くらいで通り抜けた。

共通見解として、運営の対応が完全にミスっている。

たぶん動員数(どういんすう)が予想を遥(はる)かに上回ってしまって、対応しきれなかったのだろな。

音声ガイドを課金するということもできて、これがまぁ悪手。

動員数がぱらぱらだったら、立ち止まった人が居ても課金しない人は追い抜いて鑑賞していけば良い。動員数が多すぎたもんで全然人が流れなくなって、音声ガイドの人達で渋滞(じゅうたい)になって、見ようにも見られなくなっていた。

ゆっくり見れば良いし、それくらい時間に余裕を持って来ている人にとっては楽しいのかもしれない。だもんで、時間を持って行ける人は行っても良いと思う。何を観ているのかが分からないが。

僕らも別に時間があったから言ったのだが、順番待ちしてまで観るものでもないというか、人って多くなるとあんまり他人のこと気にしなくなって、その烏合(うごう)の衆(しゅう)を眺めるために行っている訳でもないしなと、そうそうに退散(たいさん)した。

個人的にはガウディさんの思想がちょっと面白そうだなという導入(どうにゅう)になったから、人物史(じんぶつし)とか考察文(こうさつぶん)とか、当人の論考集(ろんこうしゅう)とかあれば、買って読もうとはなった。幾何学と建築学の融合(ゆうごう)を現実化した人なのかなという予測。

やれやれ。

そうして、ここから満月家へ帰宅。

わちゃわちゃが起こる。

この騒動、個人的には面倒(めんどう)だなとは思わなくて、こういうのが家族の在り方の1つの理想なのかもなと割と傍観(ぼうかん)していた。ほんとにやばかったら今の僕だと介入(かいにゅう)するはずだし。

僕たちを送ってくれる弟勇者と満月さんの認識がズレていた模様(もよう)。

朝会話では17時に帰ってくると弟勇者さんが言っていたことは残っているが、満月さんの認識では、17時以降だったら送れるよということであって、17時集合ではないとのこと。

僕は読む人なもんで、行間を想像で補充(ほじゅう)してしまうのだが、弟勇者さんはなるべく早く送ってあげなきゃ(もちろん自分が早く休まるようにという認識もある)という世界観で、17時にきっちり早く帰ってきたのに、硯も満月さんも居なくてがっかりしたのではと思った。

ただ、その後のお母様と弟勇者の振る舞いはたしかにちょっとおかしかった。

おかしいから悪いとか、理屈(りくつ)に合ってないという話ではなく、合理的ではないというだけ。ここの「理」は理由のこと。

満月さんが滅茶苦茶怒っていた。不機嫌に送ってもらうのであれば気分悪いから電車で帰ります、降ろしてって。僕も弟勇者の予定を僕らが削ってしまっていることに対して不機嫌になっているのであれば、電車で帰った方が良いよなと思ったから、この下りは特に何も発言することがない。僕としても送ってもらう立場だから、自分が楽するために弟勇者の機嫌を直すような発言をすることはないし。

満月さんが車中で怒号(どごう)を発していたのだが、あんまり怒気に当てられる感じはなかった。随分と僕も強く成長したもんだと思いながら傍観していたのだが、ほんとうは怒っていなかったからなのかもという説が起こり、いや、怒りを外に出すって実際そんなに怒っていないからだよなとなり、なるほどとなった。

弟勇者が不機嫌でぶすっとなっていることに対して、お母様も満月さんも硯という他人が居る場でもということに憤った(しんぱい)していたみたいだが、僕としてはあんまり関係なかった。そのあと、既に家族として認定されているからだみたいなことになったみたいだが、個人的には何の感慨(かんがい)もない。甘えて良いのは自分が大人になるまでの親だけではというくらい。

いや、家族同士で甘え合える満月家はそれはそれで良いのかも。

なんだかんだ仲良しだし。硯家ではそうはならなかった。

僕が家族に対して歪んだ認識があるかもしれないけど、家族って甘え合う場じゃなくて、楽しみの場でありたいなと。

この文脈で満月さんの良いところは、自分がした分を返してよという頼み方をしないところ。僕の愛に甘えている訳でもなく、色々してくれているし。僕も別にそこに甘えている訳でもない。おにぎり作っているけども、それが無くなったところで不機嫌にはならない。在りがたいことが無くなったから怒るって子供の合理。

満月家を観測していると、「否定から入る家系」なのだろうか。素直に褒めないというか。ただ、硯家もそうだったから、 僕もその癖が抜けきらないところがある。

否定から入るって、おそらく自己防衛なんだと思う。何かを否定したら自分が肯定されるというか、昔の縁日であった。歯ブラシとつまようじで型を削っていくみたいな、自分の存在感。

でも、何かを否定することで認証される自分は消極的でしかなく、結構つまらない。

問題はこの筋で生きていると、存在の身動きができなくなってくるところ。

消去法より積極法の方が良い。

で、自己認識も脳が曖昧で捉えているから、完全に正確な自我なんてありえない。

過去よりだとその時点で固定化されて、将来よりだと理想でない自分にやきもきする。

この意味でも自己紹介ってそんなに信ぴょう性がないよなと思う。

自分であることという内部認識では当人が一番知っているけれど、そんなものは現実的な関係では意味をなさなくて、他者から観た像の方が正確だと思う。

行動すればそれは他者から観測される像になるから、行動自体が人の存在であるという認識がほんとは分かり易い。これができないのは、内部認識の像がほんとうの人だという刷り込みがあるから。

満月さんには陽気なラテン系と評されているが、それで良い。

夜更かしし過ぎかよ。

でも、寝られなかった冒頭の自分は不機嫌にはならないのは分かり切っている。

こっちの方が皆と楽しめる。

いや、これは主観だから何か引っかかりがある人も居るかもしれないが、正味(しょうみ)知ったことでない。これを現実の行動認識とすれば人は何もできなくなる。

やべ、寝よう。

おやすみなさい。

良い夢を。

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