22:33から。
良いお肉を食べて来た。お肉の許容量オーバーだと思う。草をしゃくしゃく食べて生きていけるのに、運が肉ブレしている。楽しいのだが、胃腸がどれだけ持つのかが不明。いや、最近胃腸の許容量が上がっているから案外大丈夫かもしれない。
満月さんも職場の食事会に参加したいと主張していると冗談(じょうだん)交じりで言ってみたら、皆さん乗ってくれて、次もあればゲスト枠で店長のポケットマネーで招くみたいなことになっている。
なんでも言ってみるものだ。
人生劇場が楽しくて仕方ない。
そういえば、昨日の日記、だいぶ長かった気がするけども、着いて来られた人が居る模様(もよう)。ほとんど何の情報も無いと思うのだが、それでもスキを付けてくる人は居るものだ。
何も気にせずに書く方が誰かに読まれることになる説。
あ、満月さん帰ってきたっぽいな(車をバックする音)。
どうでも良いが、気を抜くと仕事のメールを書いているときに漢字にフリガナをかっこが気で注釈(ちゅうしゃく)しそうになる。
何でも言ってみるものだという世界の強度(きょうど)はおそらく1年前の僕の劇場(げきじょう)には無かった。
今日は長々と満月さんとお話してたいもんで、日記に書ける量があんまり無さげ。
僕が人のことをあんまり気にしないというか、知ったことではないとなった来たのがやっと最近。情報としては結構把握(はあく)しているのだが、関係としては肉体的に関わりがないと強度が落ちるだろうなと。
楽しいの次元(じげん)がきっと違う。
一般的な楽しさって、ある意味逃避(とうひ)みたいなもので、自分の存在を前提として、自分ではない世界に行くこと。旅行は生活空間から逃避することだし、創作物にハマるのは肉体から離れたいという傾向もありがち。
僕の楽しいは、人生劇場において自他が変化すること。小説だって、世界認識をひっくり返すものが面白いし、対人であっても、僕によって世界が変わるとか人によって僕が変わるのが面白い。
何かを収集したいという、自分に利になる世界は僕の中には無い。
利ってよく分からない。
人生劇場における利って、何を目的としているかのかの話。
僕は自分にとっての幸せが定義できないもんで、なかなか錯綜(さくそう)していたのだが、結局は、自分が動くことと、自分の存在によって他人が動くことなのかもしれない。
僕が人たらしなのは、人にたらされているから。
人によって人生劇場が変動するもんで、親密感(しんみつかん)を抱かれる。
誰だって自分によって他人が変わったという現象は人生劇場の醍醐味(だいごみ)。
僕は満月さんの存在によって変わっているし、満月さんも僕によって変わっている。
だから楽しい。
変な話だが、脳が曖昧な認識を通常営業しているということは、自己認識もそうとう甘い人が多いのだろうなという気分。自己って当たり前だから、自分がどうで在るかよりもその次の世界しか見られない。この文脈だと自己認識なんて不要。あくまで自己の独断に(どくだん)になる。
こういう世界認識の人が僕の日記をわざわざ読むことは無いと思うのだが、どうなのだろうな。
個人的にはどうせ読み合うなら、一緒に更新していけば良いじゃんと思うのだが、そういう世界観の人はあんまり居ない。あくまで自分の表現の方が重いから、何かを読んだところで変化しない。
変化が楽しいと思っていたら、日常で苦しいことも過程しかないと思う。
この境地も喫緊だし、あんまり分からないと思う。
人にとってワカラナイことを書き綴るってだいぶやばい人だが、そんなに害は無いから、読みたい人は読めば良い。
いつも同じことを書いている気がする。
夜更かしし過ぎたもんでここまで。
おやすみなさい。