作法

23:00から。

明日も仕事だと言うのに、文章脳に入れなかったもんでこんな時間。

文章を書くコンディションではない気もするが、なんとなく進めてみる。

本日は半分休みで半分仕事。

昨日結構飲んだから、ほんとうはもう少し寝たかった。睡眠を追加したところで寝不足が解消される訳ではないからあくまで気分の問題。

昼ご飯に近所でちょっと前にオープンしたスパイスカレー屋さんに歩いて行く。満月さんは車で行くつもりだったみたいだが、僕が散歩を提案(ていあん)したら、靴連れの足にも関わらず乗り気になってくれた。ほんとにアウトだったらきっちり断る人だから言うだけ言ってみているだけ。

僕は割かしアウトでも請け負っちゃう質だったのだが、今は随分と断れるようになっている。

フリガナの当て方が雑い。フリガナを付けると文字数増えるけども、書く調子が若干(じゃっかん)ズレるから、実はあんまり文字数増えないのかも。まぁ別に僕が書ける漢字が誰にでも読めるとは思っていないし、ほんとうに読みたければ調べるよねという感じだが、これって結局のところ書き手と読み手のどちらが負担(ふたん)するかという割合(わりあい)の話。個人的には僕が負担割合多い方が楽という説もある。

僕は調べるのが特に苦にならないから、読めない漢字がある文章に苦手感覚はない。むしろ読めない漢字があってもスルーする。というか、SNS記事で読めない漢字があることがあまりないのは、書き手が配慮してくれているからだろうか、、、。

読めないと言えば、お風呂読書の哲学枠に「学問のすすめ」を読んでいる。全然日本語として読めていないのだが、なんとなくカリスマ性がある文体。文章というよりは演説っぽいが、断定(だんてい)してくれる人を求めるのはなんとなく分かる。あんまり断定しまくる人より曖昧(あいまい)な中で何を考えているのかという文体の方が好みなのは、頼りとか拠り所のために言葉を読んでいないからなのか。

福沢さんが生きていた世界の識字率(しきじりつ)がどれくらいだったか知らないけども、「字を學(まな)ばなければならない」というフレーズがあって、これは今の時代にもあることだろうなと思った。

言葉の意味ではなく、論理の流れとか文脈とか、自分が表現(ひょうげん)する言葉が世界に何をもたらすのかとかのお話。プレゼンとか就活の問答(もんどう)ってロープレで場数を踏めば良い。これはあくまで間の言葉でしかない。

そうではなくて、自分の中身をどれだけ観察(かんさつ)できるか。ここでは言葉は道具でしかないけれど、語彙(ごい)がある人の方が自己認識(じこにんしき)の解像度(かいぞうど)が高い気がする。生活で使われる言葉には生活感が付着(ふちゃく)しているから、生活外での言葉を採り入れるようにしないと世界と自己像が癒着(ゆちゃく)してしまって、それが正解みたいな気分になる。

正解の気分になるとそこから外れた不正解をやたらと責めて良い気分になる。

別に良いのだろうけども、僕はそこでは楽しく生きられない。

某メンタリストさんのショート動画で、実は頭が良い人の特徴5選というのがあり、中に「意外とルールに縛られる」が挙げられていた。僕は別に頭が良くないという認識(にんしき)だが、ルールに縛られがちというのはある。ルールもどこまで拡げるかという意味ではとても曖昧(あいまい)な枠。作法とか道徳(どうとく)だってルールとしてしまうこともできるし。

ほんとの中身はルールなんてどうでも良く、その中できちんと自分の中で合理なものだけ選べば良いという立場だが、関係上においては約束とか不文の合意というか場を気にしている。契約(けいやく)自由の原則だとか、所有権絶対不可侵(ふかしん)とか、法律ってルールが自由っぽく提唱(ていしょう)されることが多いのだが、人が独りで動いたり物を所持(しょじ)しているより制限(せいげん)されている。

お互いやんわり制限されることを自由とするのはなかなか言い得て妙(みょう)な感じだが、自由ってそういうもんだろうな。「自らの由」だし、それでもって妥協(だきょう)することを指している。

作法と言えば、文章にも作法はある。文法は疎(うと)いというか、文法に則(のっと)った文章が中身をきちんと読めるのかというのも微妙。誰にでも読めるように書くのであれあれば、きっと日本語の文法を学び直すよりもWebライターの講座(こうざ)とかで人を惹(ひ)く言い回しとかを学んだ方が早そう。

特に揶揄(やゆ)しているつもりもない。お風呂読書で重厚(じゅうこう)な昔の文豪(ぶんごう)の小説を読んだり、坂口安吾さんのコラム記事が好きだったりする僕としては表層的(ひょうそうてき)な文章という味わいだけども、需要が薄味(うすあじ)だったら供給(きょうきゅう)も薄味にするしかないのだろうな。本当はもっと胃もたれするような文章を書きたいと思っている書き手さんがほんとうに存在しているのかは不明だけども。

僕の文章って文法としての作法には全然則っていない気がする。

学校の作文で提出したら、接続詞を付けて文章の繋(つな)がりを分かり易くしなさいとか、体言(たいげん)止めはしないようにきちんと文末を一定にしなさいとか指摘(してき)されそう。

ただ、読み手が潜在(せんざい)でも存在(そんざい)しているという意味での作法はある。というか。文章って読み手が居る(個人的な日記でも自分が読者)のだから、読み手が意識されない文章は、作法云々の前に文章として成り立っていないのかもしれない。

創作全般の話になるのかは知らないし、ここで僕が何を結論(けつろん)付けようとしたかも知らない。

あぁ、僕が現実的なところで自己開示(じこかいじ)ができるようになってきたのは、文章界からのフィードバックの可能性もあるなという迷子(まいご)的な結論。

世界に対して特に呪詛(じゅそ)が無く、作法に則って特に迷惑(めいわく)をかけない自分であれば、そのまま自由に人と関係して良いなという認識になった。

酔っぱらっても楽しさがもっと開示されるだけというお花畑らしい(伝聞(でんぶん)。

はい、ここまで。

一息で8時間くらいは寝たいが、たぶんもっと早く目が覚める。

それでも元気なのだが、理想(りそう)はいつでもちょっと現実離れしたところにおいておかないと。

おやすみなさい。

良い夢を。

PAGE TOP