あとは寝るだけ

22:31から。

夜ご飯がうめぇ。手羽先の素揚げ(味付け塩コショウのみ)、菜の花のオリーブオイル忍苦チューブ白出汁和え、ネギトロいかおくら(市販)。お腹いっぱい。

明日は僕の担当でマーボー茄子。

美味しいご飯を作りましょう。

そういえば、森絵都さんの「ダイブ」どうやら4巻だったらしい。

踏み込みが終盤(しゅうばん)からだったもんで、話が良くわからなかった模様。とはいえ、読みながら雰囲気(ふんいき)は読めるようになってきたから面白くなってきた。

満月さんは森絵都さんと村上春樹さんが文体として近いという。たしかに言われてみればそんな気がする。村上さんの比喩表現を削ると森さんのようになりそう。最終的に同じ味わいなのかというときっとそんなことはないのだが、食感(しょっかん)が似ているという感じ。

さておき。

お仕事。

なんだか成果を出している。

何故できているかは知らない。ちょっと人の世界線を移動させることの醍醐味(だいごみ)が分かってきたくらい。店長が言うところの「お客様は営業されたい」という発言は、僕の解釈(かいしゃく)だと、「お客様は認識を更新して世界線を移動することを求めている」となる。

内側としての自分の世界観と外側としての社会の客観的世界にはズレがあって、その認識のズレを調整して当人にとって社会的に良い選択ができるようにするという方向性なら、僕の内部ルールの禁止にはかからない。僕の都合が良いように人の世界線を操縦するのは禁止というか嫌だから反動が来る。

あくまで、僕の仕事上の都合と相手の都合でウィンウィンの地点を目指せば良いというお話。

ちょっと本日思ったこと。良い移動先だなと思っても他に何かあるかもという可能性を気にするのは社会的な選択としては悪手であって、すぐ決めた方が結果的にその後の世界線が上手く行くと思った。だって、本当に大事なのは部屋を決めることではなくて、その部屋を前提としたその先の生活だから、手段を目的化しているということ。

結婚がゴールではなく、その後の生活が長いのと同じ。

別に内部の選択に対して熟考(じゅっこう)したり保留(ほりゅう)して時間をかけるのは良いと思う。例えば人生において何を目的とするかとか、価値観において何に一番を重きを置くのかとかは一生モノの命題だから、別に退場間際(たいじょうまぎわ)に決めても良いこと。

外から見える動きということを社会的な選択とか行動とここでは捉えている。

ここって内部の世界観がどうであるかとは無関係に客観的に決まる。だって、社会的に観測(かんそく)されるし、そもそも物理的な資源(しげん)は有限だからそれを求める限り椅子取りゲームになって、早い者が勝つ。

弱肉強食(じゃくにくきょうしょく)ではなくて、速く動ける者が有利になる。おそらく人間だけが時間の観念(かんねん)を長めに持っているからそういうことになる。内部時間を前提にすると先送りしても問題ないなと思うのだが、細々先送りしているとほんとに大事だと思っていることに対して上手く動けなくなるという。

悩むって外から見た劇場で言うと、幕間(まくあい)というか、そうとう贅沢(ぜいたく)な時間の使い方だろうなと思う。内部劇場だったら当然の権利(けんり)だが、あんまり社会を巻き込むとよろしくない気はする。

内部と外は分けないと。

いや、分けているから文章界に内部世界を置いている人が居るのか。

文章界でも時間の流れが客観の人と主観の人がおる。

いや、僕は内部と外部を統合しようかという無茶(むちゃ)なことを考えているから、文章は毎日1つだし、お仕事場でも飲んだくれがバレつつ内部の変人さもだいぶバレてきた感じがある。

これがまぁ、楽しい。

あるがままの自分がこんなに呪詛(じゅそ)なかったのかというのは、学習でもなく生来(せいらい)なのかもしれないけども、結局自分を赦(ゆる)したからこうなっているという劇場ではある。誰かに承認(しょうにん)された自分を社会上の自分として設定してしまうとそれが無くなると客観的迷子になってしまう。

内部でも外部でも結局の拠り所は自分の意識でしかない。

この世界観だと、僕が人に影響したとしても結局は相手の問題だとできるから、禁止規範には抵触(ていしょく)しないで良い。

ところで、有料文章を書いている人が、「無料の人を辞める」みたいな記事を書いていて、なるほどなとは思った。たぶん僕の記事を読み続けているような人は、僕の記事が50円なり100円になってもきっと読むのだろうなと想像する。

読み物他にもいっぱいあるのにやってきている人は、だいぶ変な人だし。

変人大好き。いや、無料で読めるからたまたま読みに来たし、変人観察が面白いというだけという気もする。

変な話だが、こういうのって、自分が創った物に価値が在ると認証されたいということなのだろうなと思う。その価値を自分が労力をかけた分の対価として金銭価値とするのは普通のこと。もちろん文学フリマとかだと、印刷費とかの原価がかかってきているから、お値段は仕方ないと思うのだが、ネット文章界だと原価とか取材費はあくまで当人がやってきている人生劇場のお話。

今のところこういう書き方をしている人のその先を読もうと思ったことは無い。

営業力不足なのか文章力不足なのかは知らないが、課金するなら昔の小説を買う方に価値を置く人。

別にディスってないです。

正直に表現するとだいたいディスっていると言われるのだが、羨ましいみたいな感覚がないもんで、僕の立場で言っている訳でもないということがほとんど伝わったことがない。

やれやれ。

どうでも良い人生劇場の変化。

さっきの「無料の人」と近いところで「タダの人」みたいな認定がされなくなっているという変化に気付く。昔は「優しい人」とか「良い人」みたいな認定をされてなかなか食いつぶされていた気がするんだが、いまの劇場だと僕をただの良い人だからなんでも都合良くやってくれる認定の人が居なくなった。

僕が優しくなくなった訳でもないし、良い人でなくなった訳でもないのだが、関係上の人にとって都合が良いだけなら関係している意味がないよなと思っただけ。人生劇場においてそんな登場人物になるだけの役柄(やくがら)に徹する時間は無いなと。

お願いは聞くこともあるし、聞かないこともある。

それを聞かなかったら登場人物として認定されない人とは関係する必要がない。

これって文章界でも同じだと思っているのだが、この感覚は変人過ぎるから省略。

おやすみなさい。

良い夢を。

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