飲んだくれ

22:17から。

という一見健常(けんじょう)なスタートだが、実は飲み放題100分を通り過ぎてきている。100分1500円の飲み放題で、450円の生中を8杯くらい。ビールって薄めて調整できるものではないから、十分元は取ったはず。別に元を取るために飲んでいる訳でも無く、字義通り飲み放題に興(きょう)じた。

これで溺れていたら文章を書くコンディションにはならないと言ったところで誰に通じるかは分からない。文章は運転みたいに標識をいちいちチェックしなくても書けるし、誰かを気にする必要も無い。キッチンドランカーと同じ論理(ろんり)。

お酒飲みながら料理作っても美味しければ良いと思うのだが、そんな料理人は信用できないという層は多そう。料理も含めた社会的な営為(えいい)が高尚(こうしょう)なのか、お酒が低俗(ていぞく)なのか定かではない。

残り香の飲酒運転だけは気をつけて、不謹慎(ふきんしん)で今日も書いていく。

僕はライティングドランカーなのだが、良くもまぁ毎日読める、読みためてるよなと思う。

面白ければ何でも良いという人しか居ないだろうなというメタだが、メタメタだとそもそもこの文章が面白いのかという話になる。

不謹慎人生劇場だから他人にとって面白いかどうかはどうでも良かったり。

真面目な話もできなくはないが、そんな話は書いても面白くないし。

時々入れている真面目パートは別に訴えたいことではなくて、冗長(じょうちょう)な日常パートに振りかけている山椒(さんしょう)みたいに捉えるのが正しい。ピリリと辛いだけであって、別に辛いだけでもない。

さておき。

きちんとお仕事に行っている社会人。

本日は来ないかなと思っていた先輩女子が休日出勤でちょっと来ていたからホワイトデーでお返しをした。昨日コンビニで急遽(きゅうきょ)買ったものだが、喜んでくれて良かった。

個人的にはこういう交換関係の世界の住人ではないのだが、「自分が費やしたことが返って来なくても問題ないけれど、ふと何かで返ってきたら嬉しい」という人間ばかり居る世界性に移行している気がして楽しい。

ここの住民で居るところの物は交換ではなくて、お互い贈与みたいな感じ。

義理とか礼儀だから贈らなければいけないという世界がアップデートしている。

真面目なお仕事の話。

もっと本気出して良いよって店長に言われる。いや、たしかにもうちょっとまだ自分には深みがあるのだろうという観測があって、よく見ているなというメタ。

このお仕事で諸々(もろもろ)な人と接していて得た知見。

人ってそんなに怖くない。どんな怒気を発していても別に退場させられることはほとんどないし、基本的にはポーズでしかないのだろうなって。

悲観的な想像力が豊かなもんで、他人は僕の動きによって高低の評価がやたらと変動するのだろうなという世界観だった。

でも、そんなことはほとんど無く、それほど人って、人のことを見ていないし、あくまで当人の人生劇場の登場人物としてか捉えていない。

このフレーズ何回も書いている気がするが、これって人間関係の本質(ほんしつ)に違いないというのが、ここまで生きてきた暫定(ざんてい)的結論。

そこで、何か既定路線以外で登場する人物になるのが営業なのだろうなというお話。

この合法性の中だったら、そのうち店長より上手く道化になれるかもしれないなって。依存性が無い、単に人生劇場の1幕に出てきた面白い人という認定だったらまぁまぁできそうな。

それで家計が潤(うるお)うならうぃんうぃんだし、誰も傷つけていない。

お金は蓄える物ではなく回すものだから、余ったらあぶく銭として循環(じゅんかん)させるのが我が硯家。

やれやれ。

調子が良いもんで、ここからどの方向で書くかを迷子できる。

迷いって余裕があるからできることであって、ほんとに切羽詰まったらそんな時間はない。

緩みを楽しんで居ないと迷いは無い。

法律の話もあるし、宵顔さんとの世界線の交錯(こうさく)があったかもしれないとか、「DIVE」の文庫版を買った話とか。

僕も当時者になりそうなお母様と弟勇者の共依存の話が不謹慎(ふきんしん)的に楽しいのだが、ここを楽しんでいるのは変態でしかない。

お母様は愛を注いで守ってきたという世界観で、弟勇者は世界がその守られているのが既定になっていて、お互いの世界がややズレている。お母様は自分が苦労してきたら、その連鎖(れんさ)を断ち切るためか知らないけども、子供には苦労が無いようにって過保護にしてしまったのが若干悪手だったのかもって。

お母様の愛は滅茶苦茶尊い。子供に対して自分ができなかったことをして欲しいっていう重荷を乗せる気は全くなく、単に自分が嫌だった世界を準(なぞら)えて欲しくないという世界だから。こうやって子供を愛せる人はなかなか居ないと思う。

僕の視点だと、これだけ心地良い良い愛に浸ってしまった勇者はある意味不遇(ふぐう)で、その世界の外に出る機会を逸(いっ)してしまったのだろうなと。本当は、親が最初の社会として理不尽(りふじん)を学習する場でもあるのに、お母様は勇者の世界に理不尽を提供し続けることができなかったのだろうなと。

僕が一刻も早く最初の家庭を離脱したくなったのはなんだか理不尽だったからだという観測なのだが、こういう意味では僕も母親には愛されているとは思う。

人って、どれだけ経年しても完璧に人と関係できることはないから、愛が不器用になるのは仕方ない。親だから完璧に親の役柄を演じるなんて舞台ではないのだから無理。

この辺りを読めるようになるのが大人になる醍醐味(だいごみ)だと思う。

この理不尽を世界のせいにしなくても済むようになるのは、DNAではなくて、どれだけきちんと自分を生きているかによる。

最後。

満月さんが、満月さん一家に、満月さんは良い出逢いがあったから変わったのだという幸運として語られるのが腑に落ちないという話があった。

この言って、自分のことを世界のせいにしているフレーズだからだろうなと。

満月さんが良い人達に出逢って居るのは、当人の劇場の中で通り過ぎる他人とはせずにちゃんと自分で拾い上げてきたからでしかなくて、運ではなく必然にしたから。

良い人は舞い落ちてくる葉っぱではなくて、無数に舞い落ちる流れ星のいくつかに自分が合わせているから世界線を同期できるというお話。

世界は自分次第というのは、スピリチュアルな話ではなくて、かなり現実的な現象(げんしょう)だと捉えている。

信じるか信じないかは貴方次第。

はい、おやすみなさい。

良い夢を。

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