激動

0:07から。

春が始まった。

出逢いと別れの季節とはよく言ったもの。

芽吹く花もあれば、落ちる花もある。コントロールできないのが醍醐味(だいごみ)ではあるが、自然現象なもんでしょうがない。

まずはお仕事パート。

詰め詰めが無くなって、ちゃんと休みは休みにできそう。

やらされている感は全くない。ここを店長は「向上心」と捉えていて、先輩女子にちくちく言っている。今の若い世代に向上心を説いてもあんまり意味ないだろうなぁと思いつつ、個人的にその会話を吸収している。不謹慎(ふきんしん)極(きわ)まりないのは自覚済み。

向上心って結構抽象的(ちゅうしょうてき)な概念(がいねん)だから、どうなったら具体的に楽しいのかとか、仕事において甲斐(かい)があるのだろうかとか、そういうところに話を持っていかないといまどきの若者は着いてこられないのだろうなと。

僕はやらされていると思って仕事するくらいならもっと合うお仕事に行ったら良いと思う質だから無理に引き止めることはしない。先輩女子は営業には合っていないと個人的には思っている。もっとマニュアルがきちんとした事務とか販売の方が良いような。

満月さんの見解。仕事は選り好みではなく、就職したところでどこまでできるかという思想。

これも良い。私情は無関係という意味では同義。

合うかどうかは好きかどうかというか、そこに生きる覚悟があるかどうか。

営業は比べられるのが常態であって、その中でも自分の軸を保てないと無理ゲーだと思っている。成果という客観よりも、能動的にするかどうか。こんなこと言うと人生全てがそうなるのだが。

店長は先輩女子のことは気にせず進んで行けば良いよと言う。

これって僕が人のことを気にしながら生きていることがバレているからそういう発言が出るという意味で師匠。

覚悟と楽しみって一般的にはかなり離れたところにある気がする。

僕の中では割と似ている気がする。

営業の醍醐味(だいごみ)は自分が他人を操作して成果を得るのではなく、自分をその人の人生劇場の幕に参加させてもらうこと。

一生営業マンになるつもりもないけども、この世界は今のところ楽しいからやっている。

成果を出せばお給料に少しでも還元(かんげん)される仕事ってしたことがなかったもんで。

別に今も貧乏なのだが、そのうちもっと安定するだろうなという予感。

安心はもやし生活でもできていた。

明日明後日のお休みの後、僕が読んでいる営業本を持っていって、店長と先輩女子の間を繋げてみても良いかもしれない。先輩女子が借りたいって言わなかったからアウトかな。仕事時間外に仕事のことを考えたくない気持ちは分かるけども、こちらは強制ではなく試行錯誤の範疇(はんちゅう)。どれだけこのお仕事領域(りょういき)に興味関心(きょうみかんしん)があるかどうか。

お仕事でもなんでも良いけど、季節の様に自分も移り変わらないと楽しくなくない?

知人の結婚式に行くかどうかの話について、休みの申請の関係で僕が行っても行かなくても良いかなってぽろっと言ったら、「でら冷たいじゃん」って言われた。個人的には、お祝いって、別にその時空に居なくてもできるよねって思っているし、物的にやったら満足といいうのは自己本位なような気しかしない。

僕が参加しなかったところで1人の知人が来なかったなというだけ。

そんな感じだったら、このお休みを満月さんと大阪に行って漫喫(まんきつ)した方が楽しい。

かつてゲストとして参加させてくれた大学時代の人は、僕に来て欲しいだったからホテルも手配してくれた。音信不通な意味が分からないから探している。

僕は社社会的な関係の場での正解では振る舞えないけど、ちゃんと正常な感情はある。

やれやれ。

本日、いやもはや昨日か、

直系の方のお祖母ちゃんが亡くなったという訃報が姉から流れて来た。

親族の訃報はお父さん以来無いくらい健全な一家。

これを聞いたとき哀しいんだが、人生劇場お疲れ様でしたという気分もある。

6年前くらいにあったとき、もうアルツハイマーで、何も覚えていないし、認識が更新されない世界で生きることってどれだけの意味があるだろうって。

車の運転がやたらとふわふわしている。

でも、別に家族葬儀に参列したいという気分がない。

しないことって、行動することに対する無限の否定がある。

しないことを肯定する理由付けしかできない人は一生世界を否定しながら生きるしかない。

なんでしないかという問いに対して、諸々の理由があって、できないからですみたいな。

葬儀に参列するシミュレーションは起った。松山空港に着いてレンタカーを借りて行くって。

できるのだけど、したいかというとそうでもない。

お祖母ちゃんを悼むことは、別に葬儀に参列しなくてもできる。

〇(本名の下の名前)は他の姉弟と比べて穏やかだと言ってくれたし、孫の単なる1人だという認識だったかもしれないけども、僕は個人的にほんと好きだった。

参列しなくても個人的に泣けば良いという立場。

現実的な時空において哀しみを表現するのが葬儀場だろうけども、そこに行かなくて、硯は悲しんでないと評されたら仕方ない。

満月さんに、「おばあちゃんと会いたいでしょう」って言われたのだが、肉体的なところはぴんと来なかった。そうじゃなくて、昔過ごしたおばあちゃんとの空間が心地良かっただけであって、物理的な存在とのお別れでもないし。

他にも色々覚えていて、ほんと悲しい。

でも、さっきも書いたように、お疲れ様でしたと気分とブレンディ。

この世界観は自己本位でしかない。

勝手に悼むし勝手に泣く。おばあちゃんに霊魂があったとしたら呪詛は全くなさそう。

自己本位で言えば、母親がこの話題で涙声ぽかったのだが、これはおばあちゃんの死別を悼んでいるのではなく、当人の人生劇場を何やら情けないと思っているらしい。

同情はしないけど、心配はする。

この2連休で行くべきは葬儀ではなく母親であるという満月さんの標に(しるべ)に従っても良いかもしれない。

冒険譚、こうご期待(笑)。

おやすみなさい。

良い夢を。

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