気にしない

22:07から。

某料理研究家の味の素は減塩になるという動画を流しながらご飯を作る。

僕も味の素は割とよろしくない物だという認識だったが、実際使ってみてそういう判断をしたわけでなく、なんとなくそういうものだという影響だった。

こういうやんわり当たり前だと無意識されている世界は案外多い。

これが悪いとは思わない。判断しなくて良い習慣もありうるし。

味の素に関しては、やんわり当たり前ではなくて、使った方が良いよねと認識が更新されている。鶏ハムには必須。そういえば、我が家の食卓、塩があんまり消費されない。醤油で代用しているという節もあるけれど、満月さんもあんまり塩単体を使わない。

別に塩味が嫌いな訳ではないのだが、塩を足して料理を美味しくするみたいな感覚がないのだろうという解釈。もちろん最低限の塩味がないと味気なくなるけれど、たぶん日常が薄味になったら、それで充分美味しく感じられると思う。

個人的なところだと、塩味って油とセットだから、あんまり脂ぎっているとお腹にダメージを受けることになるから、なるべく採り入れたくないという感覚。

健康志向ではなく、単なる嗜好。

さておき。

お仕事。

本来は休みだったのだが、何故かいっぱい予約が入って1日休日出勤になった。

我が社はコンプラが凄いので、おそらくどこかで振り替えられる。

ちょっとお仕事上の調子も上がって来た。

自分がお仕事しているという感覚ではなくて、自分でお仕事をしているという感覚の方が大事。お仕事って自分を主体から客体とか手段に転化することよなぁって。仮面をもっときちんと被らねば。別にペルソナって悪いことではなく、そこに素の自分を表現したいとかっていう邪念があると変なことになるだけよなと。

どこでも通用する自分が居ると思っちゃうのは、現代社会における自己意識の表現というか、1つの信仰だと思う。ありのーままのーみたいな。

お仕事における僕の分析をする満月さん。

曰く、苦手な人と接すると、調子が悪いときに起こる自分の特徴が顕著になるとのこと。

たしかにこれはある。

この解釈だと僕は別に怒られることが嫌な訳でもないし、自分の非は問題ない。問題なのは、人が自分の調子に合わせるのが当たり前だという世界観の人。これが先輩女子で、なかなか調子が整わない。調子を合わせようとしてしまう。

これって、別に人格的に嫌いだとか、居なくなって欲しいとかでもない。

村上春樹さん的に言えばスポイルされている人だなぁとは思うが。

これを試行しようとすれば、そういう世界観の人には寄り添わないようにするしかない。

変な雑談に受け答えしないと感じが悪くなっちゃうけれど、ほんとはやらなくて良いのだろうなと。

お仕事に仮面を被って来ていない人ってとんと駄目だわ。

そのお仕事で労働契約を結んで来た以上、内情は全然しん酌されるはずがない。

たまたま私生活で出逢った人なら場面が全然違うから解釈は変わって来るけれど、ここはお仕事場だもんで、素朴な自分のままで参加できる場所ではない。

これを辛辣だと思う人も居るかもしれないけれど、僕は下なのでむしろパワハラを受けている側ではある。別にパワハラとも認識していないし、特に強く言われることはないから、やんわり変な空気感を仕事場に醸成する人という認識。

新人さんとはまだ相性が良い。

きちんと仕事の話ができる。ちゃんと仮面被ってきているよなぁって。

僕より遥かにまともな営業マンになるに違いない。

店長は、仮面がこびりついてもはやそれが自分であるとなっている説。

ペルソナ論というか、人格が統合されなければいけないという世界観も、それがやんわり当たり前だという心理学の表現。

その世界観を自己で判断しなくて良いというのをやんわり当たり前と表現している。

やんわり当たり前の世界で生きている人と接する為にはこういう知識があった方が良いかなと。世界問題ではなく、知識問題。

「月の満ち欠け」面白かった。

生まれ変わりがテーマなのだが、個人的には、こういうのは幼少期にはありそうだなと思う。魂ではなく、量子論みたいなこと。子供は波長がウェルカムだから、それが生まれ変わりとして認識されるという説。

こういう物理的には認識できない概念をどう扱うかが現在なのだろうなと。

社会学の話だが、これってスピリチュアルでも宗教でもなんなら文学でも同じこと。

物理的に認識できないことは無価値であるということにはならないという意味合い。

権利って物体ではないけども、やんわり当たり前になったのが現代。

ホッブスさんが設定した「万民の万民に対する闘争」は現実味がなく、ロックさんの「政治二論」の方が穏健で、現実社会に影響を与えたのだとか。

たしかに、所有権を重視する世界観はやんわり当たり前になっている。

起点が自己の身体は自己に属しているというところからだから、やんわり自明。

個人的には身体すらそれほど自己に属していないという感覚なのはともかく。

どんな文脈でも自分の感覚が誰かに適用される気はしないから、自己主張があんまりできない。

正しいっぽいペルソナを被って、論理付ける言語を構築するのが大事なのは分かる。

やろうとすればできなくは無いはずだが、あんまりやろうとしないのは、他人に認められることに意味を感じないのかもしれない。

いや、読んでくれている人にはいつも感謝はしているけど、感謝しているのは僕が承認されていることではなく、僕が漂流している文章を見つけて読んでくれているという1段階クッションがある。

読んでもらって在りがたいというのは、僕が肯定されている感覚とは一致しないという意味。

おやすみなさい。

良い夢を。

PAGE TOP