21:58から。
ワーカーズハイ。
お風呂読書はしていない。サイゼリヤで夜ご飯を食べて帰ってきてシャワーをあびて来た。
そんなに疲れていない。
お仕事。
やっとあと1日なのかもうあと1日なのか。
新人さんが店長とスーパー事務にあれこれと見守られながら(あるいは手出しされながら)成果を出していた。素晴らしい。素直だから良く伸びると思う。
これこそあるべき新人教育。
ちゃんと水をあげないと育たない芽が多い。
ただ、僕が同じようにされていたら、あまり育たなかったかもしれない。
今日見ていて、素晴らしいと思いながらも全然うらやましくない。
僕は最初から手放されていたのだが、これは店長の慧眼で、水をやり過ぎたら腐るタイプなのだろうなと。サボテンかよ。砂塵にまみれさせて時々気が向いたときに水を与えたら勝手に育っていく。
自分でやったことでないと世界として認識できない質なのかもなぁと。
成長は遅いけれど、その分野以外の成長も使えるから、いまや外から見れば成長が速いとみなされる。
マルチタスクがほんと駄目で、今でも何かをやっている時に急に別のタスクが入ってくると処理の切り替えで作業効率と精確性が落ちる。これがパンパン切り替えることができる人と同じくらいの水準になったのは、お風呂読書で毎日30冊くらいを並行的に読んでいるからだと思われる。
もちろん、切り替えのラグを無くしたいから始めたことではなく、一冊をずっと読むのは没頭し過ぎて比重が傾いて本と現実のバランスがおかしくなるから、当時知り合った人がやっていた並行読書を始めただけ。如何せん合ったらしく、もう10年くらい毎日やっている。
これで知識が増えたのかというと、なかなかなんとも言えない。
最近やっと簿記論が分かってきて説明できるくらいになってきたのだが、読んだことが知識として落ち着くまでにはかなり回数がかかる。
時間ではない。経年した人が自分に知識があると思うのは時間をかけているからではなく、回数をきちんとこなしているからであって、お勉強として時間をかけて本を1回読むこととは厚みが違うということ(という説)。
知識がある人って人を見下しがちだから僕もそうなるのかと思っていた。
なんてことない。ここまで経年しても、いやむしろ経年したからこそかもしれないが、そういう傾向は一切なさそう。だからどれだけ知識を収集しても良いとなる。
関係あるのか無いのかは知らないけども、自分が今属している場の雰囲気が自分が属し始めたときより随分良くなっている。職場も僕が就職した頃には結構ピリピリしていたのだが、店長がちょっと穏やかになっている感じ。いやこの店長は本心出さないからいつもちょけている感じなのだが、笑っていても目が穏やかではなかった(ような気がする)。
満月さん家もちょっと然り。
もともと仲は良い家族だと思うが、関わり方がマイルドになったような。
これは別に僕の功績だとは思わない。
ただ、僕の劇場はあんまりギスギスした者は出て来れないという世界に巻き込んでいると解釈すると、なかなか存在感があるのだなという説も出てくる。
どうだって良くて、ただただ場に楽しめているから楽しいだけ。
影響される側から影響させる側にシフトしているかもしれない。僕は楽しい世界を影響させたい世界観なもんで、楽しい世界が波及する。
もちろん、「楽」な世界では無いから、僕で「楽」したい人は居場所が無くなって来るかもしれない。満月さんももっと楽しめば良いのにと思っているが、リリィさんがまだ警戒しているのかも。
やれやれ。
ルーティンがちょっと変わってきている話。
朝起きてコーヒーを飲みながらぷかぷかとくゆらせつつ漫画を読んでいた。漫画はほとんど読み返し。脳を起こす為には漫画は良いツール。Twitterとかもそういう枠なのかもしれない。ほとんど脳の栄養にはならないジャンクフード(言い過ぎ)。
ところが最近楽しいが割り込んできて、朝からkindle読み放題の活字を読んでいる。
noteの記事は活字というより、自分の話をしたい人の話を聞いている感じ。あまり更新がない人が多いから、話したいことができたんだな、じゃあ聞こうか、みたいな。
ほんと社会学が面白くて困る。
ゆっくり咀嚼するタイミングは朝しかない。お風呂読書に今のスマホが耐えられないし。バキバキなもんで。
社会学と文学はとても近いし、とても人間的だと思う。
ここで「人間とは何ぞや」という定義問題になってくるが、人間は社会的な動物であるというというがだいたい正しい定義になりそう。主語は人間ではなく自分がほとんどだろうけども。
個人的に「社会」って未だに得体が知れなくて、世界が無いのに正答を求められる感じがあって嫌だった。今はそういうのは無い。社会は外にあるのではなく、単に具体的な個人との関係の一種の不文のルールという感じ。不文のベールは明文化すれば良い。
ちなみに、僕と満月さんには特に明文のルールは無い。
ルールは無いのに、お互い生活を維持するために動けているという。
社会には正しい選択があるという考え方は、ルソーさん由来らしい。
ルソーさんは国家を国民の全員一致で創ったという前提だから、どこかに正解がきちんとあるという説らしい。
社会契約は王権神授説と同じくらいフィクションだと思うのだが、神様ではなく自分たちがしたという意識が醸成できるという意味で、ちょっと現実的になる。
合意をしてないのに従わされているという感覚の方がきっと正しい。
日本は鎖国してたもんで、西洋世界が回数でやってきた知識に追いつかなかったし、ほんとはあんまりおいつかなくても良かったような。
ルールは外に在る物ではなくてうちにある物であるという感覚がもともとだったのに、何か外に正解があるという感覚が輸入されてしまった(のかどうかは不明)。
自分が正解だと想っちゃったらそれが正義になって、ある程度の犠牲はしかるべきみたいな、十字軍みたいな感覚になる。
あと、ダーウィンさんの進化論の社会学的解釈が面白い。
これは当時の資本主義の淘汰性の前提があるから、時代に適用されたという感じ。
そういう見方で生物界を観たから、淘汰して生き残るという現象しか見えなかったみたいな。なるほどと思う。
変な話、自分の世界観を完全に正しいと信用しているような人は、おそらく現在で言うところの神様っぽいところを信仰しているのだと思われる。
正しいから自信になるというのは宗教と同じこと。
僕は対他人において正しい見解なんて1つもないけども、それで良い。
満月さんとも試行錯誤しながら過ごしているし。
もうちょっと変な話だけども、自分の見解が正しくて相手が間違っているという語りをする人は、老若男女問わずだいぶやべぇ人だという認識。
論拠で論文とか誰かの見解で自分の見解の正当性を高めようとするのもよろしくない。
もちろん研究結果は研究した人の時間とか労力をかけた成果だけど、ほんとにそれしか紹介しなかったら、表現ではなく宣伝でしかない。
こういう知識は使うものであって、自分の世界観そのものにするものでもない。
うむ。
本日書きたいことはだいたい書けたような。
はい、おやすみなさい。
良い夢を。
ついでに、良い現実を。