21:32から。
明日は5:30起きなので早めに寝る。
本日の話は全部繋がっている感じがある。
満月さんは同僚と話し込んで3時頃に帰ってきたらしい。
特に何も思わないのだが、話題になっていることの1部にあまりよろしくないのがおるなという気はする。生産性が無いのは良い。同僚が満月さんと旦那さんを好きな理由の一致性がある話とか、同僚のマンションにアライグマが出た話とか。
悪目立ちするから仕方ないのだろうけども、あんまり見なくて良いところに焦点が当たっている話は、聞いていても面白くないなぁと。辞めたがりでやる気がない古参の人の話なのだが、ここを眼差してもどこにも行けない。だって、そのまなざされた当人が何処に行こうともしていないのだが。
睡眠時間が短いにも関わず早めに出発して運転してくれて名古屋へ。
僕が満月号を運転できれば良いのだがまだ配偶者ではないもんで保険の適用がない。
配偶者問題の話も少しした。名義の書き換えの手続が面倒だから夫婦別姓が良いというのがこの議論の本質な気がする。アイデンティティとしての名前というけれど、苗字も名前も自分で決めたものでは無いし、名付けられてそれに合わせてアイデンティティが作られている流れでない人は居ないのだから、苗字が変わったらそこでアイデンティティを再構築したら良いだけな気がする。
制度的には配偶者控除とか優遇制を排除することと夫婦別姓はセットだと想像しているから、それでも夫婦別姓で良い人はそれを選べるようにすれば良いのではと思っている。良いところ取りはできない制度にすれば道筋を自分で選べる。
夫婦別姓を標榜している人はだいたい不都合ばかりに焦点が当たっていて、夫婦同姓になることによる行政側のメリットを見ていないような。行政側にメリットがあるから優遇されるってことでしょうという視界になるのが知識では。
いや、別にこの制度について特に調べたことは無いのだが、行政側としては個人を把握するよりユニットとして把握できた方が調査コストとか集計コストが減るだろうなという素朴な想像なだけ。そうしてくれた方がメリットがあるから優遇しているだけで、国家が結婚は素晴らしいと思っている訳がない。
さておき。
そうして、名古屋、括ると地元民に怒られる、厳密には栄でお母様と合流。
お昼ご飯をご馳走してもらって、食後のコーヒー屋さんに梯子した分は払って。
非価値の楽しさ。
一旦解散して、本屋に行く。
詩のプロ(それで食っているという意味では無い)の満月さんは詩の棚にご立腹だったが、僕がたまたま見つけた「左川ちか」という詩人がその後もスポットライトが当たっているみたいで、硯は先見の明があると評してくれた。
ちなみに、未だに詩のことは全然分からない。
綴られる言葉と言葉の間に接続詞が無いから、意味がある文体としては認識できないから、ある意味風景として読むしかないものという認識。面白かったとか感情がゆさぶられたという感想が起こるものでもない。
今流行っている詩人さんの某人は、ダイレクトに感情に訴える語彙しか使っていないから、満月さんのお好みではないらしい。僕としてもこれ、noteで自分語りしている人の文体と変わらないよなとしか読めない。こういうのも個人的には好きだけど、価値論で言うと別に日常的に目に触れさせたい文字ではない。
僕が左川さんの詩がなんとなく合ったのは、感情に訴える言葉を使っていないということもあるし、なんというか、それが逆に優しいという感じ。世界が開けている。
今有名になっている最果さんの詩は、この人の感情に迎合できる人しかきっと入っていけない世界。閉じている。時流には合っていると思うし、本当の専門家が見れば違うのかもしれないけど、僕は僕の世界しか生きられないもんで、そんなことは知ったことではない。
満月さんに渡されて読んだ詩に「月は1人で見ても綺麗」というフレーズがあったのだが、これっておそらく夏目漱石さんのアイラブユーの和訳由来なのかなと解釈したのだが、月は1人で見ても綺麗なのは当たり前。その光景を一緒に見たい人だっていう意味だと解釈しているから、2人で見るから月が綺麗になる訳でも無い。
これは単なる解釈問題だから、最果さんのことを否定している訳でもない。
その世界観に合う人が多いから価値があるとされていて、そこに疑義はない。詩人界知らんし。
この話はまぁまぁ蛇足。
その後、服屋さんに行ってオフィスカジュアルの一式を買った。
こういう曖昧な不文コードってめちゃくちゃ苦手。基準を示さずに好きにして良いよと言いながら、そこまでいくとズレているなんて空気読めよと言われているしかない。
明日カジュアル過ぎるって言われたら、今後気を付けますって頭を垂れる。
薄カーキ色の綿パンと黒シャツとクリーム色のカーディガン。
顔の主張が強いから薄味の色味でも合うらしい。
やれやれ。
最後まで書きたいのだけど、書けるかな。
この楽しきお買い物の中、6月に地元愛媛の母親に満月さんとお母様と挨拶に行くみたいなことを連絡すると、電話してと言われた。
電話してみたら、色々語られた。
まずは硯と家のことで話しを付けないと挨拶もできないって。
この濁流のような話が終わったあと、全然堪えていない自分。
満月さんも察して、強くなったなぁと言われた。
これって強くなった訳ではなくて、単に自己と他者がきちんと切り分けられるようになっただけかも。やっとこの歳でか。いや一生切り分けられない人もいるし。
たしかに、母親が蓄積しているだろう恨みつらみみたいなことを肩代わりしたり影響させられる謂れは無いという感じにはなっている。母親の言い分は、なんというか客観的には全く辻褄が合っていない非合理な説明しかできてないもんで、言っていることの目的が全然明確になっていない。
何がしたいかではなく、自分がしてあげたんだからしてほしい世界観ってかなり独善的。
母親はなかなか呪詛っておる。
これに対して耐性が付いた訳ではなく、今のお仕事で人はあんまり怖くないなという耐性が付いてきているもんで、言い分ではなくもっと奥に何かあるんだろうなとしかならず、あんまり人の世界観には影響されなくなっている。
影響を受けるのは当たり前だけども、あくまで自分の人生劇場の舵を取るのは自分しかおらん。
母親の言い分は、他人の舵も自己のコントロール下におけて、円満に子供と孫が来訪するみたいな理想論を思わせるのだが、いやいや、貴方子供に愛を注いで無かったよねとしか思わない。資本主義の弊害っぽいが、お金をかければ価値ある人格だと認定されるという感じがある。
僕はこの話を聞いていてクレーマー対応みたいなことをしていたのだが、もうそうしなくても良いなとは思っている。息子として関わっていくというより、できれば単にこの膨大な宇宙の中でたまたま縁が合った個人的関係として関われる方が良い。息子だったら子供から教えられることは無いという視界しかないから。
これは別に母親のことが悪いと表現している訳ではないのだが、通じるだろうか。
母親に対して、人間的に悪かったみたいな感覚は皆無。
歴史としてはあるけれど、そんなことより自分の世界を楽しんでいるもんで、別に反省したら良いとも思わない。自分が悪かったと気付いたらぶり返しでやばいことになる。
ただ、母親がまだ人生劇場に居るということは、これは僕の劇場において処理しないといけない項目なのだろうなという解釈。本日通話をしていて、僕が自分を出せない最終的なストッパーみたいなところがあると観測する。口を挟んだら怒られるのではとか、自分の世界でしか生きられない人に話を聞いてもらえるはずがないとか。
でも、このお仕事になって人と接する機会が多くなればなるほど、素朴な自分で居た方が良いとなっているもんで、母親を傷つけずに、もう少し軟かくすることはできるかもしれない。
一般的な母親として好きな訳でもないけれど、個人的関係における母としては向き合わないとなと思う。
この人生劇場としてこなしていかないという項目。
知識ではマウント取れるのだが、そんなことは絶対やらない。
母親も硯ワールドに巻き込んで呪詛が無い世界に持ってくるのか。
強い言葉で言えば、僕は母親が父親をこの現実から退場させたという解釈なのだが、だからとて、別に恨んでは無い。なんで恨んでいないかって、しょうがないところもあったのだろうなと観測できるから。
しょうがないことにくよくよすると人生劇場の有限時間が無駄になる。
まだ絶賛過渡期なもんで拙い。なんなら人は一生過渡期だろうという解釈だし。
そろそろ寝る。
本屋に行って面白い本を見つけた。
資本主義のその先。
改革の前には解釈があるとのこと。
とりあえず時間が押してきたので寝ます。
おやすみなさい。
良い夢を。