資本主義

22:15から。

オープンラストの満月さん。

きっと現在後片付けをしている。そろそろうどんを欲するだろうなと、豚しゃぶ肉と葉っぱとミニトマトのゴマダレ風サラダうどんを作っている。

本日はたまたま朝早くておにぎりを作れなかった満月さん。

代わりに自分で作ったが、なんとなく方法論を勉強させて貰ったから満月さんのお昼ご飯も含めて僕が作るようにしても良い。起きる時間を20分ほど早めれば問題なさげ。

でも、これって良いのだろうか。

さておき。

調子が悪いと満月さんから観測されている。

彼女は仕事休みが無いからという解釈。たしかにそれはある。公休がまるごと1日取れていない。仕事を楽しんでいるが、休みを返上してまで楽しいかというと別の話で、仕事時間でやっている分には楽しいというだけだから、店長ほど仕事に没頭はしていない。

個人的な解釈だと、2日お風呂読書を欠いて日記時間を1回欠いた分、自分の時間に調律するのに不具合が生じたのではないかという説。性質上どれだけ楽しんだとしても自分に還る時間が無いと調子が悪くなるのでは。

時間の流れがおそらく一般的では無いから、自分時間に合わせるタイミングが続くとリズムが悪くなる。もちろん、これは天才なのではなく、凡人なのにズレているというだけ。

これをわがままだって言われがちなのだが、だったらわがままを通せるように日中にもっと合わせるしかない(という解釈)。

この解釈がリズムにおいて安定してくると「世界認識」に至る。

不調律なもんで、だいたい解釈問題に留まっている。

ここで面白いのが、リズムが暗めだと解釈が悲観的になるということ。

ずっとリズムがこんな感じの人は自分のことを悲劇の主人公だという認識になるだろうが、だいたいの悲劇は自分が招いているという解釈になるのが不調律。

6月の旅行、お母様が気を利かせて2泊母親宅に停まるようにデザインしている模様。

悲劇的な解釈だと、全然自分の為の旅行にはならないなとなる。せっかく地元に還るのに、自分の行動が制限されているという気分。

楽観的なリズムだと、そろそろ越えるべき世界線が浮き彫りになってきたなとなる。

母親に好きなことを言えるようになったらもう誰に対しても自分で居られるに違いない。試練ではなく、アトラクション。

悲観でも楽観でもない素朴だと、満月さんとの2人の時間ってほとんど取れそうにないんだなとか、レンタカー運転してお母様を観光地に連れて行く時間で地元に行く時間は無さそうだなとか。僕は運ばれるより運ぶ方が好きなので別に良いのだが、最初に地元に帰省しようとした意義というか世界からは外れている。

この最後のところがほんとうの気持ちなのかというと、そこまで守るべきところでも無い気がする。僕は満月さんを地元に連れて行きたかったけれど、特に遊べる場所ではないからお母様と道後温泉で観光していた方がきっと楽しい。

別に疎外感はない。

うちの母親は淋しがりの人嫌いなもんで、2日も他人が居たらしんどくなりそうだから、ネカフェで寝る世界もありそう。うちの母親、世界が主観的に過ぎるもんで日常的に人と過ごすことができない(という解釈)。人が生活空間に居ることがストレスになるのに。やんわり淋しい人。

これを自分語り的と解釈されたらそれまで。

基本的に自分を語りたくはない。

これだけ書いておいてとか解釈されそうだが、自分の中で主張したいことがあるから言葉になるという世界観では生きていないもんで。

調律に付き合わせているというだけではなく、なんとなく読みがいくらいは提供できているという自負くらいはある。どういう意味合いで面白いのかはそれぞれの解釈による。

僕の正解を書いている訳でもないから、認識し辛いと思うのに、よく読んでくれるもんだ。

僕を認定されている意味ではない意味で奇特な人が読んでいるなぁと思っている次第。こういうこと定期的に書いておかないと、自分語りホリックで共感依存症と思われそうなもんで。

ここからもう少し深み。

社会学がやたらと面白い。

僕は資本主義がなんだか変だなと思っている変人で、社会学者さんもこれが自明ではないと解析してくれている。

マルクスさんの「資本論」を読んでいる資本主義信仰者はあまり居ないと思う。

僕も全巻は読んでいない。

解釈としての話だが、資本主義を分析している時点で、資本主義の前提になる世界観が共有されているのだとか。

要は貨幣。

何にでも交換できる貨幣が世界の前提になっている。

たしかに僕が産まれてからだいたいそんな感じだったのだが、それほど自明とは思わない。

これって、基本的に交換価値の世界であってお金をかければその分何か返ってくるという世界観。本当に返って来ようとすれば貯蓄して利子を当てにするしかない。

貨幣が現実的な物を媒介する抽象的な価値(何にでも変換できるチケット)になっているという世界観。安心も安全も買えるし、欲求とも交換できる。

たしかにお金が無いと地元に旅行なんてできないのだが、他と価値的に等しいともならないのが僕の世界観。他に貨幣を使ったら他のことができるのにここに絞ったという資本主義的な選択は全くない。

もうちょっと進めると、言葉も貨幣的になっている説。

自己の実体を言葉で表現したところで当人そのものではないのに、言葉で語れられる当人が当人だと認識されるという物語。

言葉とお金はとても良く似ている。

実体とはずれているのに、現実的には物的に認識されるという意味で。

僕の日記を読んでいる人が現実の物体として僕を観測したとき、絶対ズレている。

話したがりではないから基本的に静かにしているのだが、聞いてくれる人には結構つらつらと話す。

基本は聞きたがりなもんで。

満月さんは結構聞いてくれるのだが、僕のことが好き過ぎるもんで言葉よりも振る舞いを気にしている。

振る舞い世界で言えば、満月さんって基本的に当人の世界で生きているなぁって観測できることがあるのだが、この辺りの整合性ってどうなのだろう。

僕も満月さんのことはきっと好きなのだが、一般論で言うところのスキではなさそうだから、世界がずれるのかどうかは今後次第。

おやすみなさい。

良い夢を。

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