準繰り書いて、文章脳に持って行く。
本日も速い早い。
出勤の出発時間がどんどんぎりぎりになっている。あと勤務時間まで30分しかないのに、まったり着替える時間観念はおかしいと指摘されて確かにそうかと思ったが、電車よりは肉体の方が遅延がないし、なんなら歩行から走行ブーストもある。その後の汗だくを気にしなければ家から10分くらいで職場に着けるくらいの体感はある。早歩きで15分なのだから全然いける。
もしかしたらそろそろお引越しの予感。昨日の話でもないけれど、僕の存在は物理的な場所に癒着していないから、何処でも行けるし、だからこそ、同じ場所にずっと住んでいても何の問題もない。場所を移動することを目的にしている限り、安住の地はないと思われる。
お仕事は、毎日発見がある。
読んでいる会計学の本ともなんとなく連動している本日。原価率という概念を取得した。仕入れ(原価)が販売価格に占める割合というイメージ。要は純粋な利益を算出するものであるのだが、この基準を何にするかによって随分違うよな。当時の原価にするのか、もしくは今の原価(時価)で量るのかによって利益額は変わる。
物理的に物を仕入れず加工する作家の取材費は何に当てられるのだろう。仕入れではなく何かの費用になるという想像。まぁ帳簿上何に仕分けるかによって税制の扱いも変わるのだろうな。
自分の収入だけでは測れない経済の循環は面白い。研究するまでの対象にはならないが、人間社会の理を観測するにおいて。この視点で見ると、会計学とか税法が面白くなってくる。僕は生来自分の利益になるからという理由では何もできないし。
クライアントによって、何が解決なのかという到達点も変わるし、仕事の原理的に完璧にこなせることなんてないのだろうな。
仕事ができる風な感じで書いているが、僕はあんまり考えて仕事するタイプではない。適切に対処できる例が増えた所で、未來に完璧に対処できる訳でもないし、意のままに誰かが動いてくれるわけでもないし。自己の評価が上がって気持ちよく仕事できるための処方箋みたいなのはありそうだが、それが収益に直結するとも限らない。
先生は、相手が気持ちよくなったうえで、自分もすっきりした時が楽しそうで、こういうのが仕事の感。相手(仕事の対象)が先にあるのか後にあるのかという視界はとても大事だと思われる。
ここは啓発的なことを啓蒙する場ではないのだが、仕事でも読書でも、主体をどれだけずらせるかどうかというのは大事。どうでも良いが、僕も生活上の更新の報告が漏れていてすまんことをしたと思った。報告しないと分からないことを言わないのはあかん。あと、何を買ってくるかに齟齬があったのだが、特に気にならない。足りない分は帰ってから買ってくればいいだけ。
自分ありきの他人ってどっちの劇場に居るのだろう。どっちにも居るのか。
ともあれ。主体をずらす試行は日常でもできる。
お昼休み。「砂の女」の後釜(なんとなく官能的)を何にしようかという休憩時間、お弁当を食べて、カルディにキャラメルシロップを買いに行って、お腹の遅延でお手洗いに行った都合により、5分くらいで決めなきゃいけなくなった。
安部公房さんの外の本は「壁」しかなく、そうじゃない本が良かったとか、新刊枠の現代的なのもどうだろう、とあくせくする数分、たまたま見つけた「ガルシア・マルケス」の短中編傑作集一択になった。何処かで聞いた気がする。
経験則の本領は、自覚できる内界にあるのではなくて、外を見たときに何か引っかかる楔が増えていくことだと思う。家を強固にできるという説もありそうだが、こんなの経験の土台がひっくり返ったら崩壊するくらいの砂上の塔だし。
「大佐には手紙は来ない」というのを読んでいるのだが、なんというか、ベケットさんの「ゴドーを待ちながら」と似た感じがなくもない。ある意味安部公房さんとも似ている。言葉選びが若干変というか、日常の言葉から離れている。
外国の文化を学ぶには外国語を習得するのが一番という説を見た。脳内外国人が居るとかなんとか。僕は英語の構造はあまり合わないみたいです。時節とか主客が曖昧な日本語が好き。
まぁ、翻訳された小説を読むことも次点として外国の文化を学ぶことにはなると思う。「大佐」で、「蚊帳」というフレーズが出てきて、この言語圏における蚊帳ってどういう構造物なのだろうなと考える。虫よけのためのレースというカーテンは普遍的なのか?
僕が好きなフレーズは、おそらく大佐夫婦は息子を亡くしていて、奥さんが、「(息子を亡くした)自分たちも孤児みたいなものだ」と発言するところ。生々しい。
十二国記も日本語のファンタジーなのに、異文化を読んでいる気分になる。アニメも良かった。その後が読みたくなる稀有な物語。まぁ、この世界の王様とか貴族は神籍に入って時間の移ろいがないのだが。種族もでたらめ。楽俊が好き。楽に見えて俊敏。
時間がないのに時間がある。
精神と体の一致。
なんて書くとスピリチュアルだし宗教系でもあるが、もっと素朴な話で、世界に怒らなくて良くなるというだけ。ここの不一致を他責にすることが怒りの感情として表出するのではという説があって、こうなってくると怒りは全然自然で必然な感情でもないよなーって。
喜怒哀楽が人間の感情だとされている歴史の刻印を更新する時代になっているのでは。
悲しい淋しいも良いし喜びも良いし、美を追加したいし、でも怒りは感情として未発展というか未開拓というか。
はい、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。