21:57から。
人の認知って自分を中心に歪んでいる。ポジティブな人は中心に向けて楽観的だし、ネガティブな人は悲観的。フラットな視点があるとして、そんなものは当人が見られるというか見なくて良い世界。誰が見ても同定される世界はフィクション。
みたいなことを本日車の運転時間が多くて考えていた。片道1時間くらい。
個人的な認知としては、ルール付けられた世界だと結構悲観的。車の運転が分かり易くて、やらかしてしまったなということが多い。交通ルールの正しさはほとんどできていると思うのだが、マナーレベルの急ブレーキになってしまったとか、信号がない横断歩道で歩行者自転車を譲れなかったのかとか。フェイントかけられるとどうしようもないのだが。
運転ルールで言えば、方向指示器は意志を相手に認知できるくらいの時間表示するものであって、自己表現ではなくなくて、あくまで受け取られてなんぼ。この辺りは塩梅なのだが、自分の世界で運転している人には「こらこら」と思う。指示器出さずに車線変更するのは危ない。車の運転が危険行為だっていう認識がきっとないのだろうなと思うが、こういう人達を教習所の教官が制度的に排除できない以上、技術としての自動運転が浸透すれば良いと思う。
ちなみに、僕はこういうマナー不足の人達について、特にイライラするとかは無い。
運転って注意の濃度の問題であって、右左折は濃くしなきゃいけないけども、歩行者があんまり居ない直進はそんなでもない。マナー違反の人達は直進で濃度薄くて良いところのノイズなだけ。
悲観的な視点としては、周りのペースにあんまり合わなくて申し訳ないなぁとか。
社用車だからスピードの上限がある。上限突破したとしても無理にスピードを上げることはないけれど。
だって、どれだけ急いだところで下道には信号があるもんで、ガソリンを無駄に使うだけ。
自動車という名の通り、自分で動く(動かす)という認知なのかもしれないけども、あくまで制度(ルール)の中で動せるもの。
楽観パート。
ルールが無いと言えばプライベート。
例えば家事。
割と何をしても良いからルールを気にする人にとっては自由過ぎて絶望かもしれない。
人が人生を最も楽しくできるのはタスク化されない領域で動けるようになることだと想っているのだが、きっと共感はされない。
本日のお弁当は満月さんが鶏ごぼうの混ぜご飯おにぎりを作ってくれた。
玄米と白米のブレンド(硯の配合)だから混ぜ混ぜご飯。ご飯と混ぜるために濃い目に煮ているという気遣い(無意識かもしれない)。
僕もリクエストを踏まえつつも自由に作っている。
作ったご飯はほぼ満月さんにとって美味しい。
アチャール(インドのお漬物枠?)とか、生人参の浅漬けとか副菜も豊富にしつつ、メインは鶏ももひき肉の豆腐ハンバーグ。相場は知らないけれど、個人的にはほんとに美味しい。隠し味は茗荷。
あと、なんだか食材を悪くして捨ててしまうことを贖罪している。
専業でもかなり難しいし、フルタイムの仕事で食材を循環させるためには外食をしないようにしつつ、食材の鮮度を気にしていかないといけないから、もはやお仕事になる。
僕はまだ余力がある気がするもんで、鶏ごぼうで余った鶏もも肉は片栗粉で唐揚げっぽくして、昨日のトマトとオクラのうまつゆ(自家製)お浸しに加えた。ついでに悪くなりつつあるきゅうりも。
別に同じように動ける人は求めていない。
満月シェフも居るのが我が家の食卓。僕には作れない物を作ってくれる。
どっぺるげんがーが居たら家事と仕事を任せて読書に没頭したいかもしれないが、読書だけに没頭している僕は、あんまり僕ではない。あくまで色んな世界で分散しないと。
やれやれ。
満月さんは昨日ソファーで寝ていて(僕らの語彙だと「別居」)、何かまたやらかしたのかなぁと起きたのだが、彼女の顔がちょっとすっきりしている気がした。
曰く、昔好きだった推しの人と通話したとのこと。
一般的な恋愛ルールだと「嫉妬」をするのが定説だけども、僕にはそんな感覚が無いし、満月さんも理解しているのが良い関係。
引っかかりはなるべく乗り越えたり、和解したりした方が良い。
満月さんにとって良い事象であればウェルカム。
その結果として僕と離れることになるかという命題もあんまり気にしていない。
そんなことは皆無だという自信は無いし、満月さんの世界は満月さんの劇場であって僕の劇場とは微妙にズレているし、そんなことで離れるなら仕方ない。
人のことを想う強さが空間的・時間的近さに依るというのは、まさに「所有権」の観念。
僕は満月さんを所有する気が無い。
他人って自由にできる存在では無いというのは理念的には共有されているけども、近くなると所有の観念が出てくるような。
これはこれで面白いとは思うのだが、僕を所有なんてできないと思うもんで、満月さんがちょうど良い。山月記みたいに山に還っても怒られない(さすがに怒られる)。
人間が物的に把握できるというという認識は自分の存在が物的だという鏡。
自分が物的存在であるということは在りがたいけれど、解像度が不鮮明。
誰かが自分対する目ではこの認識がある人が多い気がするけども、自分の眼が不鮮明だと自覚がある人は幾ばくだろう。
昔の知人がまた飲みたいとメッセージは発してきたのだが、僕には土日休みがないのは伝えている。にも関わらず、土日休みで逢いたいってなんだか変じゃない?
相手の時間に合わせずに人と逢いたいって、なかなか変な世界観じゃなかろうか。
僕と本当に逢いたいなら、平日のどっかで調整しなさいと言いたくなる。
要は、それほど時空間が一致しない人なのだろうなというだけ。
これは別に、僕に価値があるとかではなく、そんなにいつも合わせられるような時空観は無いというだけ。
断捨離というか、時間が合わない。
僕じゃない人でも交換可能な気がするし、そんなに固執しなくて良い気がする。
固執しているのかどうか分からないけど、好かれている意味があんまり分からない。
もちろん、僕は僕で無いと関係できないという変態を求めている訳でも無くやんわり人と過ごしているけども、何にもしていない人に対して何にも思わない。
まだ色々書きたい気分だが、硯は生きてる世界をこれでも肯定的に捉えて居るというだけ。
おやすみさない。
良い夢を。