落とし込み



メインは本の方だが甚平がはみ出している。

なんだか前回から眠気の極限のような状態で書き始めている。夢は内部にある異界だし、眠気で綴られる言葉は境界領域なのかもしれない。本心であるというより、本性である。

起きてからしばらくして、モーニングを求めて散策。丘の上の方まで歩いて辿り着いたのは、キャンプ場めいたカフェだった。丸太とか、なんとかチェアーみたいなものがおいてあり、時間つぶしのよく分からないテトリスっぽいボードゲームもある(負けた)。ホットサンドを自分で作ることができる。食パン2枚とミックスナッツとクリームチーズと蜂蜜とかなかなかボリューミー。両面から挟んで焼けるフライパンとしても使えるホットサンドメーカー、生活に取り入れても良いかも。アイスコーヒーも浅煎りあっさりで美味。

そのあとすぐニトリで同じようなものがあるかと探したが、卓上の感じしかなかった。キャンプ用品専門店にしかないのかな。家に帰るかどうするかとなった、昼前。家に帰って「ビギナー」の続きを見ながらまったりするというルートもあったが、遊び心で運試しに行くことにした。

なんだかんだ両者勝ってしまい、あぶく銭でランチを食べることにする。地ビールとジェノベーゼパスタと肉。あぶく銭は速やかに経済に回してしまう。コーヒー屋さんでアイスカフェラテとアイスカフェモカを買って、スーパーに寄ったついでに最寄の古書店へ。

割と眠気でふらふらだったのだが、その分本性に本が寄ってきた。安部公房さんの「砂の女」の解説を書いていた外国の方が書いた日本文学史。和歌のところで、自分には日本語の「調べ」が分からないのかもしれないと書かれている。いや、今の日本人にもそんなに居ないですよとか想った。僕も音楽としては読めてないし。いや、村上さんの作品には音楽が流れている感じはあるが、これは文化とか語句の並びに音を感じている訳でもない。

あと、岩波現代選書の「言葉と身体」、みすず書房の「言語機能論」という言語学の本が続く。言葉が身体性の表現であるのは確かだし、ただ、もっと他にも機能があるだろうなという素朴な感覚に説明をくれそうな本群。

冒頭に貼った本は、森博嗣さんが翻訳しているというところでまず気になった。お風呂読書には入れてないが、ふとした時にぱらぱらめくれるような社会の日常が切り取られた写真集。デザインがテーマ。デザインは飾りとかファッションの領域ではなく、設計というか、余分なものを削りとった最適化が日本語としては近いだとか。主に別の機能を持ったものを他のことに流用してしまう発想。例えば我が家ではトースターの上面が調味料の置き場所に流用されているとか。

デザインはきっとある程度言語化できる領域でもある。

ちょっと寝つつ、ご飯を食べながら料理番組を見る。料理バトルで、「食戟のソーマ」感があるのだが、アートというか、デザインとして料理を再構築するという感じが新鮮。与えられた課題を解釈してコンセプトを設定して、そこからが技術の問題っぽい。いくら技術があっても、テーマに寄り添えてなければ低評価になるし、解釈の斬新さはあくまで基本の技術と課題の媒介になるものでしかない。ものでしかないといいつつ、オリジナリティの本質はここなのだろうな。

僕は別に表現者ではないのだが、何か採り入れられそうなところはありそう。目的を持つのが良いと世間は言うが、目的の設定はここでいうところの課題であって、それを達成するための道筋はきっと1つではないから、課題だけいくらこなしたところで、引き出しが増えるかというのも微妙なところ。引き出しも大事だが、引き出しが多くてもどう組み合わせるのかという発想がなければ持ち腐れる。

日常においてもコンセプトを設定するようにすれば色々楽しそう。目的としての課題は別に自分で決めなくてもいくらでもあるし、あえて決めても良いが、本当の問題はそれをどのようにするか。

文章も記録的に書くのは夏休みの宿題みたいな課題であって、どう記録するかについては開かれている。文章で言うと、引き出しは語彙になるのだが、難しいのは言語の概念上、それを記述できるのはその語彙があるからという部分もあるところ。欲望とか感情の機微とか個人とか政治思想とか。こういう領域限定だが、言葉の外には世界はないということになる。

実生活に関わりがない(と思われがち)なことを勉強して意味があるのかという問いは子供が素朴に出してくる課題だが、これに答えられるオトナはどれくらい居るのだろう。いまの僕(今後更新される可能性は当然ある)なら、それによって世界そのものが拡がるからだよと応える。あそこに移動したことが楽しかったでしょ? お勉強は頭の世界の中で移動できるところが拡がるんだよって(もっと相手によってかみ砕く必要はある)。

引き出しを増やすというよりコンセプトを増やすこと。
別にどれが正しいとか決める必要はない。

僕に子供ができたらお利口な二世が生まれそうだと言われる。そりゃ、一緒に世界の発見を楽しむし、学ぶだろうしなと。もちろん世の中の灰色なルールもそこそこ把握しているから、そこも抜かさない。あんまりやったことないが、やろうと思えばきっと舌戦もできるし。

ただ、その子がこの感覚を楽しめる人格かというと未知で、どの世界観を選択するかも任意だということになると、あえて遺伝子を継承することは優先順位の上の方には行けない。

自分の練度だけ追求したい感じでもない。でなければ外の人を観測できないし。本日の他人の発言で残っているのが、最寄駅の手前の並木道で子供が、「ここが(セミの声が)一番うるさい」と、ニトリでカップルの男性が「アヒージョ作ろう」って言っていたところ。聞き取ったことを話題にしたい訳でもなく、1人で歩いていてもきっとただ聞こえている。

人生無目的野郎なのだが、これってコンセプトから目的を可逆的に設定できるということでもあり、この人格の可動性まだあるよなって。文体が在るということは無意識にコンセプトが設定されているということだが、これをあえて可視化するというのは面白そう。なんとなくリズミカルを目指してそう。

ランチを食べたお店のメニューで、地ビールの説明文ががあって、ぱっと見で酵母が公募に誤字っていることが見て取れた。編集者向きと評される。

なんだか、文章に対して、鑑賞するという視界が意味を読むこととは別に構築されている模様。景色として残せば後から読めるし、そういう風に見たら文字から意味を追うより案外読めている。

よし、寝る。

おやすみなさい。

良い時間の扱いを。

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