不安定


本日のコンセプトは、ぐうたら内省。

ぎりぎり早朝くらいの朝、見送りにコインパーキング向かう道中、罰を受けたというか命令されて嫌々やっているという顔をしながらランニングをしている人を見かける。せっかく体に良いことをしているのだから、もう少し清々しい貌で走れば良いのにというのは余計なお世話。

ただ、プラシーボ的にはどうなのだろう。何にやらされているかといえばきっと大上段健康という目的と想像できるが、健康のためにストレスかかることをして、どれくらい効果があるのか。これをやっとけば良いという健康法だけでは健康になれないような。というようなことが、「天才脳」に書かれていた。

体はゆっくり自律的に動かすだけでも効果があるような気がする。歩く速度をコントロールしてみたり、何処に力を入れるかを変えてみたり。

帰ってきて、てきとーにラップ冷凍ご飯を消費したあとひと眠り。

その後は、ちょっと気になっていた漫画を一気読みした。最新の方はちゃんと課金して買った。進化論をテーマにしている異能系バトル漫画。世界線の分岐とかの話もあり面白い。イマドキという感じ。

あとは、ゲームをしつつ、現実の料理バトルの番組も見る。関西地区予選で、絶対味覚を持つ人が出てくる。異能っぽいが、料理の個々の要素をちゃんと言語で答えてくれる人が居ればそれが当たり前の世界観になるとも想える。この言語化できるかどうかが、環境要因より大事なような。料理が当たり前に生活環境として在るのはだいたいの家庭がそうだが、家庭料理がどういう風に作られているかを言語化してくれるお母さんはなかなか居ないような。少なくともうちの母親にそんなことを聞く暇はなかった。

家庭生活ってなんだかそういう厳かな空気があった。
あんまり気にしてはいけないというか、無意識的に継承されてやっていることを言語化するってエネルギー遣うよな。そもそも語彙がないのかもしれない。レシピは記述できてもそこにあるイメージとか感じは、言葉では心許なくて、そんなあやふやな言葉は発するべきではない、みたいな。

料理バトルの敗退者が、言い訳を全くしないのが良いなと思った。それを言ったら、料理業界は上下関係が確立しているから(文句は言えない)という見解。なるほどと想ったが、個人的には、なんというか、短絡的に自己の料理界を捉えていないから、塩味が強いと言われて単に塩味を減らせば良いというものでもないくらいの世界観の中で料理人をやっているのだろうなという見解。融通が利かないと言えばその通りだが、融通利くくらいだったら文体ならぬ料理体としての存在が成り立っていない。

個人的には京都の日本料理の人が推しかもしれない。「これまでにない唐揚げ」というテーマに対して、もろもろの風味を付けた油を食べる人の眼前で鶏肉と昆布にかけて、唐揚げが一番美味しい「揚げたて」の時間より遡るという発想が好き。タイトルの「ながら鶏」も料理という作られ終わったものとしての概念を飛び越えている感じ。恋人さんの推しと違うからバチバチですわ。いや、ならないけど。笑

そういえば、「食戟のソーマ」も好きだった。というか、料理漫画全般楽しい。最初に読んだのは、味っ子だったか。温度が違う油で二回揚げたかつ丼とか、アルデンテは指の感覚でなくて時間で測るんだとか。

職人的にこつこつ積み重ねるのが好きなのかも。僕は職人気質でもないとしているけども。
でも、感性だけで成り立つ天才はきっと居ない。こつこつの過程が意識されていないだけなような。

職人と言えば、法律も歴代の立法者が積み重ねてきた結晶みたいなもので、ここだけ変えれば良いみたいなものではないのだろうな。僕は当たり前のルールとして習得しようとしていて、これが間違いだった。

まぁ普通は、そういうものだというだけで納得できるし、それがどうしてできたのかを気にしなくて済む時短になるのがルールの醍醐味。サッカーをしている時に何でフィールドプレーヤーが手を使ってはダメなのですかって言い出す場違いと同じこと。

一応10年くらいはやってみたのだが、余計に善悪とか正誤が分からなくなった。というかそういうものだとできない素朴が自分が顕在化しただけとも言える。所有権とか、不法行為とか、別に自明なことではないし、個人の概念も歴史上では最近の発明だし。

でも、自明で自然ではないということは、そこにきちんとした目的があるということで、むしろ良かった。法曹になる気はなくなったが、このお勉強時間はちゃんと僕の思索の糧になっているし、ここから1からまた読み直したい。

マイナンバー法についての論考のPDFファイルを読んでいる。個人の価値が物理的存在から情報に移行しつつあるというところなのかな。法文読んで居ないから論考もあんまり読めていないのだが、単に情報として管理されることに対する感情的な忌避感で捉える問題でもないような感じ。国家からの管理という視界で言えば、既に管理下にあるし、この傘下に居ることで国内ルールに庇護されるという契約が社会契約だし。

僕が法律学に親和性を感じるところは、同じ単語でも使われる文脈によって意味が変わるところ。例えば、「暴行」という単語は色んな犯罪類型で使われる単語なのだが、暴行罪と強盗罪と強制性交罪で意味が変わる。何故かというと、守るべき利益が違うから。暴行罪だと人の体だから、人に対する有形力の行使になる。人の体に物理的に変更を与えうる外力。強盗罪だと無理やり人の財産を奪うことに重きがあるあるから、単なる外力ではなく、財産を奪いうる外力であって、被害者が自分の財産を奪われることを反抗できない方向での外力。強制性交罪になると、性的自己決定権を放棄しうるという文脈になる。公務執行妨害罪だと公務員の体を守る為ではないからもっと緩くなって、公務を妨害する可能性で良くなる。現実に当たらなくても石を投げるとか。

どれも素朴な扱い方ではないのだが、このニュアンスを全部ルールとして書くことはできないよなという実情。マニュアルあったら自分で読めるような人は世の中にほとんど居ないという想定はだいぶ当たっていると思う。理系のニュアンスでもないし、文系の感覚でもない。

もともと、言葉の構築は歴史上のエリート層の役割であって、大衆はそれを読み取るだけの存在だったのだろうし。今は別に誰でも書けるようになっているが、文脈が断ち切られた中で、積み重ねがない言葉が濫用されている。見知った言葉を継ぎ接ぎすれば誰かには通じる個人的社会。

もちろん、読む人としての僕はいま生きていることを楽しく捉えるのだが、言葉ってそもそもなんじゃろうなと考えて良い時代でもある。

文献収集し放題だし、言葉と存在が一致していないということに気付けるようになっている。
そんなの当たり前だとしたら、貴方がほんとうとしていることが言語化できるのは矛盾ではなかろうか。

僕はこれだけ綴っているにも関わらず、言語化を存在自体としていないし、かといって完全に離れた匿名とも捉えていない。変な話、匿名的な存在だって言語ないし画像の発信で定義されているのだから、ある意味不自由なのでは。

僕はこういうのがどうしようもなく、駄目。

現実的にも言葉で定義されるのは甘受するが、僕は他人のことを言葉では定義しない。
叙述しているだけっていうニュアンスは誰にも通じたことない。

他人は機能で捉えるものではないって、どこかの哲学者みたいだ。自分が楽になるという視点でパートナー選びはしてない。

はい、おしまい。

おやすみなさい。

アウトプットできますように。


PAGE TOP