知見


昨日、スーパーから帰るとき、はぐれシャボン玉を見かけた。見渡しても発生源もお仲間も見つからない。ちょうど帰り道と同じ方向に流れるものだから一緒に歩く。それにしてもなかなか破裂しない。割れにくいシャボン玉ってたしか砂糖入れるのだっけと見ていたら、風に乗って上昇していく。こいつどこまで行くのだ、破裂する前に空に消えていくのかと盛り上がりを見せるが、不運(幸運?)にもその軌道上に電線がある。ぶつかって弾けるのだろうなという予測を覆し、半球状になって電線の横に止まった。そこから見下ろされる僕。

良いものを観た。昨日の日記の冒頭に書けるなという感じだったのだが、罰走のようにジョギングする人が勝ったらしい。

さておき。

潤沢な睡眠時間から始まる一日。色んな夢を見た気がするが特に言葉としては書けない。オオサンショウウオが出てきた気がする。

仕事ではフィードバック研修で自分の声の録音を聞く。ランダムに選ばれた案件。なるほど、アレか。6月1日だった。録音された声に感じる違和感は、声はデジタルでは完全にコピペできないということなのかもな。もうちょっと動かせる気もする。

内容は概ね好評だった。これって折り返し案件なのではないかというのを誰にも聞かずに即答していた。割と得意な分野だから、まぁそれはそれとして。もっと相手に安心感を与える所作があるのではないかと提案され、たしかになと思う。話しながら頭の中を整頓するのはやってないと無理だもんな。テンポを合わせる。

そういえば、また仕事上で発見。3年程働いていても新規ではない従来の部分で不知がある。まぁ、云十何年生きていても自分の中に知らないことがあるのだから、時間経過と知識はあくまで量的な問題で、質的な問題ではない。量があれば無意識的にできるようになって思考は省エネにできるが、そういう世界観では生きたくないし、安心も無い。

この世界、永遠(一生)安定した状況はないし、どんな場合でも例外は起こりうる。例外ばかり心配するのも精神衛生上よろしくないが、起こると思っている例外が起こらなくて、起こらないと思ってしまう安定は良く壊れるのは何故だろうな。

人生の質を向上するという価値観がある。僕もこれは賛同しているが、これが収入とか環境みたいな外から来ないと向上しないという意味であれば質ではなく量を問題にしているように思う。ここでいう質は、おそらく自分の行動の向上みたいなところ。環境に対して自分をやりくるできるようにする。

ということで、食生活のクオリティを高めるというコンセプトからバルサミコ酢とクレイジーソルトを購入し、毎日食べているベビーリーフのドレッシングを自家製にすることを目論む。昔も作っていたのだが、そのときはワインビネガーで、バルサミコ酢はもっと癖が強い。酸味より渋味が強いというか。

とりあえず本日はオリーブオイル、バルサミコ酢、クレイジーソルト少々、醤油、砂糖を混ぜて味見して、マイルドさが足りないから卵を使ってないマヨネーズをちょと加えてみた。美味しいがまだバランス悪い。にんにくを加えると良いらしいから、明日やってみる。試行錯誤楽しい。

メインもイメージで脳内予行調理をしてから。鶏もものひき肉が安かったから買って、これを支柱にして家にある食材と合わせて、これは鶏じゃが!というイメージ。あまり時間をかけてられないのが生活調理時間。ひき肉を炒めながら両面にコショウを片栗粉をまぶしてあまり崩さずに火を加え、人参とジャガイモと玉ねぎを投入して軽く混ぜたあと、水とめんつゆとほんだしを入れてアルミホイルの蓋を乗っけてしばし放置。この間にお湯を溜めながらアイロンと洗い物とドレッシング作成と、レンチン目玉焼きと。

火が通ったあと豆苗を投入して豆感を加える。肉じゃがに入っていることがある緑の豆の再構成。うまい。たぶん、誰かに振る舞っても大丈夫な水準のものはできている。目的によって向上していくという世界観がなくても、なんとでもなるのだろうな。

というか、人が世界線を移動できるのは、目的という言葉ではなくて、衝動とか直感みたいな設計図みたいな感覚のところだと思われる。

1日、3000文字くらいの記事を書いている人を見かけた。哲学系。最終的には1日に1万文字くらい書くようになりたいとか。僕がこれをしようと思ったら、1日1時間半までくらいの執筆時間だから、最短1分で133文字綴れるくらいにならないといけない。飲み物を含む時間も考えれば150文字くらいは書かないといけないのか。書き直さない、打ち直さないでスケッチしてどれくらいいけるのかはちょっと試してみたくなる。

現状何文字なのかもあんまり分かっていないが、体感では2000文字と3000文字の間くらいのはず。ここではSNS特有の読まれる文字数の枠がないから、時間が許す限り書きまくって良い。

常時賢者モードの自己統御というと聞こえはいいが、何かと波長を合わせている感じがまだある。研修の時にも発話で説明するのは上手いらしいし、言葉に対する設計はフォーマットに合わせない方ができるみたいだし。手紙を形式からずらして手紙として成り立たせるとか。

手紙が苦手な人って、いろいろと理由がありそう。例えばリアルタイムに伝わることではないから何を書いたら良いか分からなくなるとか、そもそも文章に化体するのが苦手とか。

僕は文章も発話も苦手だったし、今でもちょっと苦手な所はある。これっておそらく言葉が個人の存在の延長だとされているから、変なことは言えないみたいな変な刷り込みがあったから。言葉は存在の延長ではなく表現でしかないという視座に居座れるようになったのが、何本? 千本以上は日記で書いてきて得た知見。

発話も含めた言葉って、体とは違うし精神とも違う。そんなこと当たり前だというのがインストールされているのが普通だと思うが、僕にはインストールされていなかったらしい。にも拘わらず、人は人の言葉を存在とする節がある。ここの矛盾がどうにも解消できなかった。

存在そのものの延長ではなく表現であるという知見はここを解消してくれる。
凄くすっきりしてしまった昨日今日。

何を言葉にするかというのは、割と適応みたいなところがある。
方言とか。僕は母親と話すときに愛媛の言葉になるのだが、別にもともとの語彙という感覚はなく、ただその場に合わせて発話している感じ。

大阪に来て10年以上経つのに関西弁も移らない。関西弁圏内で愛媛弁のイントネーションは馬鹿にされるから、適応はしたが1人事的に出てくる頭の中の言葉は愛媛でも関西でもない。

「好き」という言葉。僕がこれをあまり言いたくないのは、この定義が相手のその言葉の中にあるニュアンスといっしょくたになってしまうからなのだろうなという自覚。多義語だし、基本的に特別感が出ている。

夏目さんがアイラブユーを「好き」と翻訳しなかったのもそういうところなのかな。「月が綺麗ですね」という語感の中には、月が綺麗ですねと言える相手が居る、その相手と見上げた月は綺麗に見えてしまうという感じがあって、その感じがその人と居る意味を表現している。別にこの言葉が愛しているのフレーズにコピペされる訳でもない。

言葉を文字通りに遣うのはもともと無理なこと。
だって、人の脳はそんな風にできていない。もともと人類には言葉なかったのだし、もっと他の情報を感知している。言葉がないと足りないのに一緒に居られるって、言葉がないところで生きてないか。

ふむ。だからこその言葉か。

まだいっぱいあるけどここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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