21:46から。
この時間から始められたのは台風のおかげ。
もちろん、なかなか現実的には不便ではある。
バスに乗る前に徒歩2分くらいのコンビニに行こうとすると、最短ルートが水没している。仕事日で無ければサンダルでお構いなしにバシャバシャ進んでも良いのだが、革靴は長靴ではない。RPGみたい。1マスの川くらい泳げよ主人公、でも道具がないと移動できない。
豪雨の下、自動車を運転するのも、退場願望としか思えない。
たまたま仕事だから運転したが、視界は狭いし川におっこちそうだし、正気の沙汰ではない。他の運転車を見るに、不要不急の外出を控えている感じもしないから、楽観という狂気なのだろうなと思った。
車で川に落っこちたら、酔っぱらって溝に落っこちるのとは違って帰って来られない。
豪雨の中、五感は最大限に擦り減らしつつ、ちょっと不謹慎に鼻歌交りで考える。
嵐と言えば、村上春樹さんの「海辺のカフカ」の越境シーン。
なんだか、世界線が移動しそうでワクワクしてしまう。またどこかの石がひっくり返された模様。
という感じで、自然に他意は無い。
あくまで、受け手がどう捉えるかというだけ。
自然がメンドクサイのではなく、メンドクサイと捉える自分がおるという。
さておき。
お仕事。
こんな日にしかあり得ない、たまたま通勤のタイミングが合った。
僕がバスから降りたとき、電車の駅からえっちらおっちら歩いてきたスーパー事務と逢ったもんで、5分ばかりお散歩通勤デート。
特に何を話した訳でもないけれど、こういうイレギュラーは面白い。
毎回だと話すことが無くなる。こともない。
言語で無いと疎通できないのが他人。
決してディスってないが、証明を必要とするのは他人との契約めいている。
僕の変人性のバレは、僕の言葉遣いでは無い気がしている。
そんなに話さないし。いや、最近ちょっと言語的に開示しているかもしれない。いやいや、大人しくしているときからバレていた。
言葉と言えば、仕事上外国語をちょっと覚えようかなと思ってきた。
高校時代、英語は無茶苦茶苦手だった。英単語を覚える意味が分からない。今となっては文明の利器で単語はグーグル先生がやってくれるもんで、ヒアリングとか、その国の言語の規則みたいなところ。日本語は規則度外視と良く聞くけど、実際相対的にどうなのだろうなと。
必要だからではなく、越境として。
なんなら、日本語圏内でも言葉だけでコミュニケーション取れている気がしないから、日本語すら不自由であるという自覚がある。
言葉が記号なのかというのは文学界隈の深淵のテーマだと思っている。
満月さんは僕が彼女のことをどれくらい好きなのかって良く聞くのだが、エベレストより高く、なんとか海溝より深くって量的に言ったところで、ほんとうに満足するのかは分からない。
満月さんは言葉遊び畑(語弊があるかもしれないが、詩とか短歌とかはこの枠だと解釈している)だから、言葉と人が一致しているという節が強そう。僕はそこまで一致しているとはしていないから、ある意味僕が満月さんを弄んでいる節はある。
こういう意味では性根がドSなもんで、あえて言葉を一致させないようにしているような。
甘やかさないというべきか、なんなのだろうな。一応、僕の不備によって満月さんが僕の世界から退場する可能性はずっと想定している。でもこんなの僕が何かしらをしたことで覆るような世界線ではないという説。努力してなんとかしないと維持できない世界には無理がある。努力できないことを相手に転嫁するのもいかがわしい。
ほんとうにしたかったら、他のことを断って良い。
想定しているけどももはや最長になったもんで、きっと大丈夫かなとは思う。
大丈夫だから慢心するということはないけれど、イチャイチャ成分があんまりなくて不満なことは響いてくる。他で発散している訳でもないけれど、そこが必要だったらとっくに離れているはず。
ともあれ。
お仕事に戻る。
ちょっとサイコパスな感じだが、先輩がこのお仕事場から退場するような流れになりそうで、すんげぇ気楽。色々助けてもらったし、尊敬すべき先輩なのだが、お仕事に持って来ている遊びが無いもんで、会話をナチュラルに気遣わないといけない。
気遣っているから自分の語彙で話ができない、なんてことも無い。
僕が勝手にセーブしてきた他の人からの辞書が、素朴な語彙を阻んでいるだけだろうなと。
先輩が居ない、僕と店長とスーパー事務とかいがい女子だけの場だったら、もっと冗談っぽく言葉が出てくる気がする。この冗談が通じないっぽい人が場に居るだけで、僕はあんまり話せなくなる。
別に噂話で誰かを下げる語彙も無いし、一般的な意味でここだけの話があんまりできない。(もちろん、仕事場の情報制限は前提)。
満月さん界隈は、僕のことを弄っているみたい。別に気にしていないけど、若干馬鹿にされている気はする。もちろん、馬鹿にされないように振る舞うつもりが無いとも言える。
という遊び心というか、主観と客観を分けられるというのは、人格の統合とかいう心理学上のフィクションではなく、ゲーム性を人生劇場におけるかどうかなのだろうなという説。
ゲームの定義って色々ある。テレビゲームだったら自分とは離れたアバターを成長させることを是としているから、現実から逃避して楽しむ。将棋とか麻雀だと自分を使ってゲームをしているから現実というか物理の自分と連動している。
で、文章もそういうところがある。
自分とは離れたところで書いていると、自分のことを語りつつ相手が悪いという方向になる。
ニュアンスの問題なのだが、文章に視点が2つ以上ある人は面白いと思う。
なんならお友達になりたいくらい。
もちろん、別に今の僕とお友達になりたいような人はほとんど居ないと思われる。
それで問題ない。
僕の中のゲームは、自分を使ってまだまだ楽しめそうという定義だから、自分によって世界を定義する人とはあんまり合わないのかも。
僕はまだまだ楽しく生きたい。
意識高い系と微妙にニュアンスが違うのは、評価を高めるために積み上げるのか、楽しむために動くのか。他人からの評価は知らんがや。
この世界観で、現実でどれだけ動けるようになるのかは観測してください。
(書く暇が無くなってくる可能性はある)
はい、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。