癖が強い

23:40から。

明日も仕事だというのに、こんな時間。

晩御飯が遅かったというか、遅い時間に白ご飯を食べて血糖値が上がっている。

血糖値上昇と文章の相性はすこぶる悪い。

ついでに白ご飯とビールも。

さておき。

合宿して不在の満月さんが居ない1人の朝。別に昨日の食事会のビールは特に残っていないが、寝不足が残っている。一服をしているとコンテナが見える。本日は不燃ごみの日だった。満月さんのプレッシャーは無いけれど、缶のゴミを2袋分捨てた。家で過ごしていることが多いからゴミは循環させるもの。完全に綺麗な生活なんてない。

お仕事。

本日は店長と2人。

店長は僕と仕事の時はとんと静か。僕もスーパー事務かかいがい女子相手の時しかあんまり喋らない。ちゃんと仕事の話ができるもんで。店長と話すとどうしても上下という感じがある。

そうして、店長から硯さんのせいでアウトローのお客様が増えてきたと言われる。

謂れも無いことだと思いつつ、いや、引き寄せはあるのかもしれず、店舗全体に波及している可能性を想うと、若干申し訳ねぇとなってきた。

ごめんなさいとか申し訳ないという意味合いも若干変わってきている。

悪いという意味はなく、なんだか自分が自分で在ることに言い訳できないなという感じ。ここに感情をブレンドすると希死念慮とか罪悪感になってくるのだが、この後者の方の感情って、社会的なシステムのインストールだろうなと考えている。

仕事はもうちょっとでまた突き抜けそう。

お客様と話すことに変に構えることが少なった。たしかに時間を奪っているとも言えるのだが、こっちに情報投げた以上、こちらとしてはお客様だから追うしかない。拒否するくらいなら、きちんともう要りませんと返す方が社会的というか常識的。ちゃんと要らないと返してくれたらどちらも時短になる。

あんまり日記をつらつら書いていてもつまらないので思索へ。

出来事とか感情のことしか書いていない文章はつまらないという記事を見かけたのだけど、たしかにちょっと分かる。体験みたいなことはたしかに内側から見れば固有だけれども、外からみたら類型的情報にしかならず、読み流すことしかできない。

外から見た固有な人格って、体感をどう解釈するかのパートにある。

情報をコピペしても辞書にしかなれないし。

そういえば、お風呂読書に日本の小説が入ってない。何かいいのないかしら。

今、ドストエフスキーさんの「罪と罰」を読んでいるのだが、文豪の本ってあらすじを追えない。なんというか、思想に物語の衣をまとわせているのだろうなという感じ。表現の形式が小説であって、中身はごりごりの思想だからあんまり物語として移入するものでもなさそう。もうちょっと物語をきちんと纏っているのが、村上春樹さんとか森博嗣さんとかのような感じ。

この登場人物は何のメタファーなんだろうとかで読んだ方が分かり易そうとふと思っただけ。

やれやれ。

汗だくで出勤しながら、論理的な感情とか集合的無意識のことを考えている。

こんなろくでもないことが浮かんでくるのは調子が良い証左。

集合的無意識って結構超自然というかオカルトちっく、もしくはスピリチュアルな印象がありそうだが、人は社会の中でやっと人間としての人格を習得できるという筋から読むと、人の精神根っこが別に直接関係しなくても繋がっているというのはある意味当たり前なのだろうなという説が起こる。

人格が創作物かどうかはさておき、どういう感じで自分が生きているかの感覚は普通の感受性を持っている人からすれば、環境から影響を受けている訳で、この環境のほとんどが周りの人。で、なんとなく承継したいオトナは一定数いて、さらにその承継元にはもっとオトナがおり、オトナが影響を受ける環境は、物理的な人間関係より少し広い。広さはテレビとかネットがカバーしていて、もっと考えると時間的に前の人もいるし、その繋がりを辿って行けば、広さと時間を加味して最終的に生きている(生きていないのも含む)社会が人の人格の根っこにある=集合的無意識に至るということはありそうだなと。

なんとなく似ているからエニグラムみたいな類型的に人を把握する手法も成り立つ訳だし。

となると、自分が孤独であるという感覚も割と環境要因というか、環境(社会)がこれを許容しているからということになりそう。

別に言葉で考えた訳ではないけれど、こんな風に感じたことをスケッチしてみた。

はい、もっと言語してみたい感じはあるのだが、ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

PAGE TOP