動機疑義

近場のリュウゼツランについてググったら7月下旬に開花予定とのことで、情報が煮え切らない。行ったことない場所だから咲いていなくても行くだけでインプットにはなる。

まぁそもそも生きるだけでインプットだからあえて動かなくても良い。とりあえず本日もインプットを最低限にして内側の鍋をことこと煮込む1日。


朝ごはんは予告通り鍋のスープで雑炊。めんつゆをちょっと入れてキャベツと卵を加える。面倒だから溶かずにそのまま入れて混ぜて火を止めて時短。鶏肉から出た油分が効いている。福神漬けと合う。

ごろごろしつつ、漫画を読む。あだち充作品の最初の方が軒並み無料公開されていて懐かしくて読み返す。実家には紙媒体であるはず。いや風化しているかもしれない。一般的な名作はアニメの名シーンでよく出てくる「タッチ」だと思う。個人的には野球だと「H2」か「クロスゲーム」の二択になる。一番好きなのはとなると難しい。「ラフ」も捨てがたいが、「KATSU」かな。この人の漫画ってメタ的な視点があるのがいい。そうやって読者も見てますよとしながら物語に一気に引き込んで来るという。あえて言語化するなら、「死」と「才能」がテーマなような。ゆるい感じなのに普遍的だから何を題材にしても読まれるのだろうな。

昼ご飯は冷凍ご飯玉と鍋の残り食材を消費する丼。豆腐ともやしのバター醤油丼。

BGMにYouTubeを流していたら「スラムダンク」の考察動画に当たる。バスケはほとんどしたことないのに好き。吹き出しの色によって人物の内心的評価が違うというのはなかなか。まぁ侍やったことないけど「バカボンド」も良いし、個人的には宇宙リーグのバスケ漫画をアニメで見てなんかよかった。出自的な才能が違う中(地球人は弱い)、実は主人公が宇宙人だったとか。

漫画という分野も社会ありきの領域よな。社会から離れた絶対的な漫画は読まれようがない。

夜ご飯の前にニトリに買い出しに行く。僕用ではないのだが、気道が通るための枕。
この前行った時に2人で感触を確かめた冷感のやつ。個人的には枕の高さとかどうでも良く寝れれるのだが、お怒りような唸りはない方がパートナーさんも安眠できるのではと。

近所に出歩くこともインプットというか、観測できる事象はいつも通りではない。季節もうつろうし、人も違う。ニトリがある施設は一階がスーパーで二階が百均、三階はかつて家電量販店だったが、いまやニトリ。僕が気になったのは、一階のガシャポンの前でだべっている二人組の主婦っぽい女性群。ちょっと話しているくらいならまだしも、僕が枕を買って帰るときにもそこに居た。そこは雑談スペースではないし、やんわり営業妨害と思うが、僕は別にガシャポンを買う人ではないし正義感溢れる人物でもない。

そこでだべっていたらガシャポンを買う人にとって迷惑だという想像力はないのだろうかとは想った。道徳的にも法的にも黒くはないし、たぶん良識的な人ではあるのだろう。だからこそこういう普通の人が苦手である。道中に野球部中学生達が道の6割くらいを占めておそらく荷物持ちのじゃんけんをやっていて、そういうことは人が通らないところでやることだというのと同じ感じ。

道徳も法もしてはいけないことと捉えると、あとはして良いことになる。いじめとかやんわり排除とか。してはいけないことは大事。でも、それだけでいいのだろうか。

やれやれ。

そういえば、僕は啓発本は読まなくなったが、教養本は貪っている。
この違いがふと言語化されたさっき。啓発本は正解を語るが教養本は正解がないことを語る。参照点を増やすのか減らすのか。

「最終講義」の精神医学者さんが、分かるにつけ分からないことが増えるというの円に喩えていて、それって当たり前よなってずっと思っていたことだった。自分に馴染んでいる領域を円として、分かる範囲が触れることは直径が延びることだが、円周が拡がった分、「分からないという範囲」が増えていく。分からないと分かる領域って、前提知識がないと分からない。

犯罪現象は社会がもともと設定しているという下りから跳躍して、精神疾患も似ているという類推。かつては民法上の制限行為能力者は禁治産者と呼ばれていたし、社会の外の存在として隔離される。「ドグラマグラ」もそんな感じが。

要は、「認知機能」という人間性自体が社会におけるデフォルトの世界で生きられるという指標になっている節。認知症の人も何某かは感得しているし、これが認知症と認定されていない人の世界より劣っている証左はない。

ここで、文章化の機能を考えると、文章を綴れることがほんとに高度の認知能力なのかというと、かなり微妙。言葉の機能にはおおまかに伝達と表現があるが、伝達でしか綴れないのであれば、言葉を書かなくても存在できている。

で、もう少し考察を進めて、言語的存在の捉え方の話。教養本群が、「動機」の言語化に対して疑義を持っていて良いと書いている。

人って、自分がしていることに対してやたら動機を大事にする。
この前の研修でも、なんでこの職場に来て、これだけ長いこと働いているのですかって。

一応言語化できる観測はあるけど、僕はそもそも動機によって世界線が動くという世界観はない。だって、きっかけなんかより、それを今しているという現象の方が大事。

動機で世界を設定したら存在が分裂する。なんでそれをしたのかなんて人に聞けないんだよな。聞くまでもなく現象されている。

パートナー観で言っても、僕は割とする側ではありつつ、返ってくるのが僕の存在でないとつまらない。ここは別に僕の存在に対して相手が有用かという話でもない。この素朴な僕で一緒に居られるかどうか。

変な話、動機の言語化って、一種の宗教みたい。

僕はきっかけに対してはたまたまで、続けていることの方が存在としている。

自分に対してメタ的に言葉で補強することも無くて良い。
素朴な自分の世界に言葉が皆無って、きっと誰も信じてくれない。

ともかく、僕は自分のことを言葉で決めないだけ。

おやすみなさい。


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