欲望にまみれていたら何やら位相が違うところに行っていた模様。
天気予報はあてにならない。
お風呂から出たら戻ってきていた。
朝起きて諸々の欲情。炭酸ジュース、アイス、しじみの味噌汁、ヨーグルト。全て満たせる場所が近所にある。甚平withサンダルで出発したら結構これからお出かけするような人が居る。ホテルの朝食に部屋のパジャマで行った気分。別に恥ずかしくはない。甚平顔だしきちんと紐も結んでいるし。
ついでにドトール印のカフェオレも買う。炭酸ジュースは懐かしのビー玉入りラムネが売っていて、どこかに出かけていく人を尻目にぼっち夏祭り気分。昔のラムネはもっとしゅわしゅわしていたような気がするが、単に炭酸に馴れただけかも。ビールも甘い。
冷凍ご飯玉を解答し、梅干しと納豆と福神漬けと作り置きお新香でなんとなくホテルのバイキング朝食感。
夜ご飯の買い出しに行くときに、ぼっち公園にカップル、いや夫婦の貫禄がある2人組がいちゃこらしている。ぼっち公園の名前の由来は去年のクリスマスに1人でスパークリングワインとケーキを買って食べたことによる。2人組が座っていたのが丁度僕が食べていた椅子状の石のところでなんとも。もちろん、そんなにじーっとは見ない。じーっと見るたのはその少し前。金網越しの猫氏。寝ていたのを数十秒眺めていると起きる。危害を加えるつもりはないですよと金網越しかつ、手を後ろで組んでいたのだが目力がバレたのかもしれない。
買い物して帰ってきてもいちゃこら2人組の位置は動いて居なかった。ガシャポンの前で雑談していた2人組に感じた不快感は皆無。
ちょうど通りかかる前、止まれと書かれている信号無しの交差点で、減速はしても停止はしない車が通り過ぎていて、道交法にまつわる不公平感を考えていた。取り締まる人員と資源不足は分かるが、その「止まれ」は別にお巡りさんが見ているから捕まるようなものではなくて、端的に危険だからという理由なはず。
この不公平は、恣意と運によって点数が引かれるかどうかが決まるというある意味ギャンブルみたいなところにある。これを解消するためには、公道はすべからく公的にモニタリングされる場であるとしたらどうだろう。現代の技術だったらドローンを配置すればなんとかなりそう。違反した人は後日皆さん罰金になれば、不公平感はない。歩き煙草とか唾吐きとかもついでに条例違反で取り締まれるだろうし。
なんだかディストピア感が醸される世界だが、公道は基本的には移動する場所であって、私的なところではないとすれば、特に問題ない。ただ、ドローンを飛ばすと公道以外の人の所有地の映像も記録されることになって、個人の尊重の根っこにあるプライバシー侵害になって憲法違反を帯びてくる。まぁ、公的領域が快適になるというのは私的領域がその分狭くなるということだし、そもそも個人情報がインターネット世界とか公的機関に集積していることを鑑みれば、物理世界だけで私的領域を守ることにどれだけの価値があるのかは微妙な天秤。
今や個人の存在を構築している情報は物体に留まっていないのに。
僕が素人ものの性癖があるのは、演技性が排除されていることによる。演技なのにという矛盾。いやこれは過剰な開示。
ちなみに、僕はなるべく夜警国家派なので、なんでもかんでも法的にやるものではないとは思っている。事実上の強制もなるべく排したらいい。
という、うごうごの後にいちゃこら2人組を見たとき、あんまり見るものではないなと思いつつ、この2人にとっては、僕(他者)のまなざしというのは味付けとしての舞台装置なのかもしれぬとなった次第。高校生カップルは単に場を確保できないという理由だろうけど、公のまなざしに興奮するということはありうる。
公私の空間の混同というのは、仕事で怒る(あるいは泣く)とか、匿名的な世界では誰を攻撃しても反撃がないとか、割とありふれている。というか、あくまで人生劇場の内か外かという話なのか。
ちょっと脱線。なんだか賢そうな人が、パートナーの条件に、美形で院卒の20代ということを挙げていて、なかなかの人生劇場に生きているなぁって思う。別に否定している訳ではなく、そういう世界線でも成り立つのだろうなという観測。ただ、存在として、間接的というか刹那的な証拠にしかなりえない条件しかない。僕も院卒だが全然賢くないし、そこで人を見るのは何か空虚な感。
どうでも良いが、僕はちやほやされる性ではないのに、未だに何かそういう節がある。
けども、昔からちやほやされる自分を存在の論拠にはずっとできなかった。人が僕の何を見ているのかが分からない。
賢いということも昔から考えていて、ちょこちょこそういう風に評されることもあったのだが何か違う。憲法の本で、やらたら専門用語書く人が出てきていて、たぶん同じ領域の中の人には通じるのだろうなという感じはある。ただ、これって賢いかどうかの前に、それをやってきただけ。もちろんそこを突き詰めていることは重要だし、ほんとに通じるのは前提知識がある人の仲間内なのかもしれない。知識人というクラスタ。
こういう集合体は人類の発展上の機能を持っているとしても、僕のイメージの賢さではない。例えばカントさんやらヴィトゲンシュタインさんは賢いのかというと、何か違う。僕の中での賢さは、領域の位相を越えられることにある。超えるでも良いけど。
専門用語を日常用語に置き換えれるとか、それを実践に落とし込めること。どれだけ知識量があっても、前提を疑えなかったら知識の意味はあんまりないのでは。
変な位相に行ったなと思ったのが、うとうとの起き抜けに「死」がちょっと怖くなったこと。なんともいえない不安感。死の概念を最初に教えてくれた白猫の「チロ」がスライドドアに挟まって亡くなった夜の気分とちょっと近いのか。ご冥福とか言える場合でないくらい泣いた。
やれやら。
日記時間が間延びしている。そろそろ収めねば。
言葉が公私のどちらかと問うたとき、人はきっとどちらもあると答えるはず。誰にも読ませない言葉があるとか。
僕にとってはあくまで言葉は公なんだよな。読み手が居るという前提がないと言葉が起こらない。内部において言葉はなくても疎通されるから、自分の劇場の為の言葉というものがない。
内部は言葉という公的な道具をあてがわなくてもあくまで内部であって、語るという文脈において初めて言葉が出てくるという次第。言葉は置き傘と近い。
だから手紙に違和感がないのか。
恋人さんのお誕生日にポストカードに書くというミッションがあるのだが、なるべく近い時間で書くようにしたいらしい。
「天才脳」で、社会的な繋がりが脳を活性化させるというのがあったが、僕にとっては書くこと自体が社会としての公だし、現実的に会話しなくても書物と対話しているから無人島に図書館があれば大丈夫な気がする。自分のパターンで本を読むことができない。
誰かと繋がっていないという孤独感、申し訳ないがこの前どっかに落っことしてしまった。
はい、ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。