個人不特定情報

21;53から。

本日は満月さんがお休みでご飯を作っていただいた。

ありがたや。レンコンと人参の水煮が絶妙。

お仕事。

越境癖が高じている。

本日のお客様も面白かった。話題にするのもどうかと思うからあんまり書かないが、警戒されないように人の話を聞くのは、聞き手に他意が無い割に興味を持たれているという、良い感じの塩梅が無いといけない。もちろん仕事場という舞台だから、その塩梅も入って来る。変に距離感を詰めてもいけない。

年下の人に僕の経緯を聞かれだしたら、もう懐に入ってしまったなという感じ。

僕は別に自分語りを好まないし、お察しの通りこの日記も自分語りをしたいが為に書いている訳でもない。ただ、聞かれたら話す準備はできているというだけのこと。

実年齢より7歳ほど若く見えてびっくり、それって嬉しいんですか、いい意味で言っていますけどもと言われた。それに対して、わたくし実年齢をそんなに気にしていないのでと答える。

若々しく見える秘訣として運動をしているのかとも聞かれたが、自転車通勤で毎日40分くらい普通の自転車を走らせているというだけ。毎日老化まっさかりの酒盛りをしていることは聞かれなていないから言わない(言えない)。

個人的な事情も色々聞かせてもらってほくほくなのだが、当人が特別ではないということを話すと結構安心して貰える。個人的にも、もっと酷い事情の人でも商品を提供できたことがあるから、仕事上なんとも思わないし、父親と仲悪いですみたいな話も、仲悪くできる父親が居るだけ良いよねと想う。

ここで、僕の父親はもう亡くなっているから仲良くしたら良いですよななんて言い出したら僕主観の自分語りのお説教にしかならないし、そんな世界観に人を巻き込むつもりがないもんで、ちゃんと切り分けている。誰かの父親は僕の父親ではないし、これを共通項にできるのは、抽象化する脳の省エネ化。

硯さんならどう思いますかと頻繁に聞かれたのだが、僕はこういう文脈で何かを聞かれたとき、お仕事でなくても相手の事情を選択に付加してしまう。こういうのが文系の思考方法らしい。聞かれている時点で、純粋な自分の選択でありえない。

純粋な視点だと、僕は僕に選択をするような問いかけはしない。

選択って事後的な視点を先取りしようとする無理ゲーだから、言語的考察ではない直感で動いてしまうしかない。後から見ればいろいろ選択肢はあったなと後悔するのも仮設みたいなもんで、それで後ろを気にするくらいなら、次の行動を改める方が合理的。

事後的な視点ってある意味神様だから、過去の自分は無垢の羊というか、責め放題。そこで暗い快感を得るドМな人はいくらでも自分を責めて満足していれば良い。僕もそのドМ気質は分かるもんで気持ちはとても分かりみ。

そんなことをいくらしたところで誰かが戻って来る訳でもないし、自己満足でしかない。

自己認識が過去に固定されると、未來に対して動けなくなるというのはデメリットだが、そっちに向いて動くと自己認識が更新されてしまうというのが一定層にとってはネックなのかもしれない。

本日のお仕事は先輩女子とタイマン。

とはいえほとんど先程のお客様にかかりきりだったもんで、雑談の機会はそれほどなかった。

面白いなーって思うのは、この人、視界と可動範囲がずれていること。自分が稼働できない範囲では視界がものすごく広いし、ちょっと達観している向きもあるのだが、こと自分となるとぎゅっと世界が凝縮される。割と当たり前なことなのかもしれないけども、これって自分の否を他人に転嫁しながら生きている劇場な気がしないでもない。

僕も事務仕事のところでチクチクと刺される。まったく気にならないけども、気にする人だったら一緒に仕事するのは大変そう。この意味で店長とは近いから同族嫌悪的な何某かがありそう。

かいがい女子は凄く大変な板挟みのナカでお仕事しているのだろうなとという想像。年下だし後輩だし、仕事でないことをいちいち気にしないといけない。

まぁこんなのは僕が仕事上経年していけば刷新できそうな気はする。

あんまりやりたくないところではあるけど、仕事場が円滑になる方が遥かに強い。もし悪者にならなければいけない局面になったら、僕の直感は迷わずそっちを選ぶ。自分より仕事場を保つ方が大事。

という感じ日常譚を書いて、ここから考察パート。

あんまり需要が無い気もしているが、どうなのだろうな。

noteの人でも仕事のお客様でも素朴に友達になりたいなと想ったりするのだが、これってあくまで他者としてのおもてなしみたいな関わりであって、私的になると違うのかもしれない。

僕はこんな奴だから公私の裏表がなくて、別に連絡が無いから嫌われていると思い込むことは無いし、タイミングが合えば逢えば良いというくらいで、肉が邂逅することを関係が近いと思っていない。そんなことより、ナカミが通じていることの方が大事。なんなら僕も別に物理的にお友達と逢えるような時間は無い。

だから友達が居ない。

伴侶は必要としなくても、友達は居た方が良いというのが現在の定説っぽい。友達と関わることで世界が充実するという向きだと思う。

この友達が必要という概念ってなんだろうな。

昨日書いた、人が他者をどう認識するかの話の続きとすると、人が自分を認識するのは、「他者の他者として自己」としての自分になる。かっこ書きの部分は鷲田清一さんの哲学書からのフレーズなのだが、人の自己認識って哲学領域なのだろうとなる。物理的な生物学的視点でもないし、社会的な自分でもないし、変な話、合わせ鏡みたいなところにしか自分は在らない。

だから、匿名的な世界でも他者から認識されると自分が存在している気分になれるし、その為にリソースを費やすことができる。ほんとに自分が存在しているかどうかは哲学的命題で答えがあるようなものではないから、状況証拠として、誰かから観られる自分を自己存在とする。このためには、その仮設的な自分がたくさんの人から見られたという証拠が必要。

(この証拠をどれだけ集めても自分には辿りつかないという意味では、数学の極限ちっくではある)

したがって、友達は必要、みたいな。

時間を潰すのではなくて、創る関係であれば、、、

僕がこの変な連鎖から離れて、他者から見られた自己を自分としなくなったのは、もはやまぁまぁ悟りでしかなくて、なんでこの悟りに至ったのかもワカラナイ。越境って他者の中に自分を見つける行為ではないし、こういう連鎖に付き合うような交友関係はもうしたくない。

それでも良ければ友達募集中です(控えめに)。

僕の内部の話は割とどうでも良くて、物理的な世界もそうなって来ているというのが面白い。もともとそういう自分だし、あんまり実年齢関係ないところだし、ここからまだまだ人生楽しいなという感じ。

僕の文章を好きだと思ってくれている貴方と、僕は連動していません。

これだけ文章が氾濫している世界で僕の文章を見つけて印を付けてくれたことはとても嬉しい。変な人がやって来たなって。

はいここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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