23:06から。
循環が滞っている。
こういうのが疲れという。
満月さんリクエストの味噌ラーメンの準備はしたのだが、自分用のご飯を作る余裕が無かった。買ってきたベビーリーフサラダと、昨日満月さんが作ってくれていた茄子の浅漬け、あと、納豆のガーリックソルトがけくらい。
これでも昨日2人で買い物に行った時、「貴方は自分本位だ」と言われた。
満月さんが炊き込みご飯を作るという話になり、どういう具材にするかと聞かれて「僕は夜に炭水化物食べないからなぁ」という発言に対して、次の日のおにぎりに何食べたいのか、私は貴方のことを考えて聞いているという経緯。
あぁ、自分本位だったら自分が食べない満月さんのリクエストの炭水化物もの作るはずもないのに、だったらこういうのやめた方が一貫しているのかと思う。作るのが嫌なことはないのだが、自分本位と言われたら自分が作って食べる分で満月さんの分もまかなうべきとなる。
そんな嫌がらせみたいな子供じみたことはやらんけど。
僕の否があるのは、「何食べたい?」に対して特に答えを持たないこと。
もちろん、本当に食べたいものがあって気を遣って言わないでもないし、何が出て来ても特に文句はない。いや、イモ類は何か駄目だが。
自分がやってきた自炊って、「何かを食べたい」から料理が始まる訳では無く、スーパーに行って食材の具合(何があるか安いのは何か)を見て、そこから料理を組み立てるというものだった。スーパーにあるものから食べたいが始まるもんで、行く前に食べたい物があるのは稀。
外食に行くより自分で作った方が面倒が無いというのは言い過ぎで、基本食べながら飲みながら日記を書いていたから、食べるだけの時間を守りたいという感覚がない。それだったら、煙を吸ったり吐いたりする時間のが他意が無くて良い。
なんだか諸々書いているが、低層の気分帯なだけであって、普段ならほとんど気にならない領域。不均衡なのが愛とか恋とかの関係だし、別に報恩の為に動けるような人物でもないのに、弱ると分かり易い一般的関係性の観念に逃げたくなるだけの話。
循環が滞っているのは、お仕事でエナジードレインのお客様に当たっちゃたことによる。
もちろん悪い人では無いし、発言も丁寧だし、物腰も柔らかいのだが、、、何か相性が悪くて吸われた感じがある。2日連続長時間の応対になったのもあるかと思ったりするが、だったら昨日の楽しさは起こらないだろうし。
なんだろうな、何が吸われたかというと、僕の元気というか越境癖というか。
僕は成果に繋がらなくてもちゃんと関われたらなんとも思わないのだが、なんというかすんげぇ空ぶっているというか、この人の世界の中に僕は参与できなかった徒労感。費用(時間)対効果として無茶苦茶効率が悪い。
最後に色々画策しようとしたら、店長からそこまでサービスしなくて良いよって窘められる。たしかに。
人情で響かない人と響く人は切り分けないといけないなという教訓。
僕も別に人情では動かない人だが、それとは別にお客様の立場でも提供側に対して迷惑になり過ぎるのはいけないなという感覚がある。この感覚を持っている人は、完全に自分本位にはなれない人だから素晴らしい。
これを常識とできれば良いのだろうが、常識だったら「カスハラ」という概念がやって来ないのが現代社会。
こういうのは、ファッションの流行と同じようなモードの天秤なのだろうな。
どれだけ頑張ったところで、社会上は対等になれない舞台。
僕ももっともっと提供側として勉強していかないといけない。
提供時間が遅いと若干クレームになりそうだったが、全面的に謝罪してなんとかなった。
この遅さのストレスの原因は僕ではないのだが、そんなことはお客様には見えないから言っても仕方ないし、ごめんなさいでしかない。僕にも否はあるし。
お仕事だから理不尽も給料分という関係。
ほんとはもっと楽しい仕事をしたい。キャパオーバー気味に仕事が舞い込んでいるもんで、大変。別に忘れて遅くなった訳ではなく、やらなきゃいけないと思いつつ更に優先順位が高い仕事をしていただけであって、なかなか臓腑がチクチクするというかヒリヒリしている。
マイペースが随分早くなっていると観測しているのだが、それでも余裕で追いつかない。
まぁ、できるから舞い込んでいるという観念。なんともキリスト教チックな感覚だが、ここだけ導入しているだけであって、基本的に僕は神様という俯瞰的な絶対者を信じていない。
あくまで、劇場は主観でしかない。
という感じで、もう書いている気がしなくもないし、頭の鍋でコトコト煮込んでいる気もする道徳論のこと。
大昔、でもなく、今でも信仰している人が居るかもしれないが、「自分がやられて嫌なことは他人にするべきではない」という命題。だいたい正解だと思うのだが、僕は子を成したとしてもこういう風には教えないなと思う。
この命題の対偶は「他人がされたいことは自分もしてほしいことだから他人にもして欲しい」となるのだが、こんなの感情が均一化している世界でしかありえないし、一種の共産主義だと思う。僕は特に共産主義も否定しないのだがともかく。
違和感を言語化できたのが最近。
僕は自分がしたいことと他人にされたいことがズレていて、僕がやられて嫌なことが他人にとって嫌なことでも無いなーって。僕はあんまり注目されたくないから、どうでも良い人に僕の文章をスキされることを特に欲しないのだが、文章を書いている以上、(無関係の他者に)認められたい層が圧倒的だから、読んだら頑張って欲しいなという意味でスキを付ける。
僕はされたいことをしている訳ではないという意味で、この命題から矛盾する。
構われることで認められるとも思っていないから、特に人に構わない。
構われることが友人関係だと思っている人とは友人になれない。
誰かが自分の為に何かをしてくれたことを誰かの価値にはしないというのは、この道徳的命題とは無関係。
この道徳律はあくまで自分本位の視界の焦点であり、これで何でも解決できる万能なものさしでもなく、ゆるゆるとした劇場で生きている人にしか適用できない世界。
当たり前のことしか書いていない気がするのだが、こんな文章誰に響くのだろう。
読み物として成立しているかも疑わしい。
まぁ、特に気にならない。
あくまで漂流文なもんで。
はい、おやすみなさい。
良い夢を。