なんだか臨場感のある夢。「言葉と云々」という本をおばあちゃんが書庫から発掘してくれていたが既読だったという話とか、父親と従妹と車で出勤めいたことをしている最中、失踪した姉から電話が入った父親は何故か走行中の車から離脱して、惰性をエネルギー源にした車が走る。僕はブレーキブレーキと思ったのだが、従妹の方がこのまま走らせろという。危うくジェットコースターでいう回転するレールのような道に入りそうだった。入ると別の県に流れる。
うむ、何を示唆した夢か分からん。
起きたら何か胃もたれ気味。昨日多めに作ってしまった、「豚肉と厚揚げをメインとした味噌味の炒め物」という構想から出来上がった料理の為かもしれない。美味しいのだがなにせ使い切りサイズの厚揚げがなくて、残すと後を引くしなぁって無理して食べた。無理するとろくなことがない。
まぁ1人前の食材ってきっとコスパ悪いんだよな。事情はなんとなく想像できる。
1人物はご飯あまり作らないだろうな、もしくは事情を察して作り置きするぐらいの熟練度だろうなという想定(後者はちょっと飛躍)。
お仕事は、やはり新人さんの人格は何か割る意味で変な感じ。こだわる部分が仕事の効率と直結していない。席替えがあるらしく、仕事が終わってからあくせく何かしている。(個人的にはこの時点でおかしい、残っている仕事が無いのであれば早く帰るべし)
変わる席の椅子も同じものなのに、何故か椅子を入れ替えて、潔癖症なのか知らないが替わり先の席だけせっせと拭く(変わり元は特に拭かない)。仕事が始まる訳でもないのに、変わり先のパソコンを立ち上げて何か設定をチェックする。まぁこれは良いと思うのだが、仕事中の先生に初期設定に戻すツールは無いんですかとか聞くのはオカシイ。先生がたまたま暇だったとしても。
潔癖というか、そうとうしんどい人生劇場な感じはある。色々あったのだろうなと察せられるし別に文句ではないのだが、この職場との相性はとなると、大丈夫じゃろうかと思う。僕もわりと仕事はきちんとしたい派だが、このきちんとは僕のきちんととは随分と文脈が違うような。
椅子を移動しているときにたまたま古参の先輩と目が合って、苦笑いしていた。
「え、移動先も同じ椅子やで?」という表情。
別にそれについての雑談はなく、面白い雑談があったので書いておく。
顧客の読み間違えがあってこれは仕事上のあるあるなのだが、僕がこれはカタカナ表記だから読みにくい、漢字だったらそんなことはないと言及したら、漢字談義になった。というか先輩の漢字観の開示か。死ぬまでに読めない自国語(漢字)がある民族って、他の国から見たらどう捉えられるのだろうか、すぐ書けなくなるしという思想。こういう人好ましい。自己の捉え方が肥大していない。
おしゃれな先輩も参戦してきて、自分の名前の画数が多いから大変だという話。これもあるある。下の名前なんて読むのだろうなと気になっていて、しれっと自己開示されてなるほどと。「愛」の読み方っていっぱいある。
読み方がいっぱいある漢字の曖昧性は日本人である限りしょうがないが、僕は体をもって意を表す漢字のカタチがとても好きだ。英単語テストは苦痛だったが、漢字テストは楽しかったのはそういうことか。平仮名は結構苦手だったから美的視点によるのかもしれない。漢字は優美な感じ。
あと、古参の先輩が世の中に対して悲壮感しかないみたいなことを言う。
某氏のアレとか。ニュースを見ると悲観的なトピックしかないらしい。ニュースを見ない未開人みたいなところで生きているから悪いことが起こったことはスマホに上がって来るポップアップでしか見えない。
僕は特に世界が悪い方向に行っているという感覚はない。なんだか申し訳ないが、世界の情勢と私的世界の楽しさは全然別で良いとしている。情勢に共感したって仕方ないし。
この薄情さってなんだろうなと考えている常。ちょうど無知の塔のどれかでメディア論のマルクハーンさんが再登場。「テレビは触覚の延長である」。
なるほど、人ってテレビから流れてくるメディアを肌感覚で捉えているのか。たしかに触りはとても現実感がある。僕も肌感はあったが、肌感だったらあえて触らなくも良い。触感の身の丈って、一方的に触られることではない、双方向の部分だし。
テレビはあくまで視覚優位で見ているから、見える景色は変えても良い。だから見ない。
テレビ見てたって、世界がいまどうであるかをリアルタイムに観測することはできない。
この感覚って、おそらく共感的メディアとしてのインターネット言論と同じ感じ。
触感として書かれた言葉を触り触られることで暖を取るのか。
何か情報が書かれているとか、考察があるとか、言葉に存在を化体している訳だが、バズったりより読まれることを求める衝動は、肌淋しいからなのだろうなという解釈が起こる。
僕はもともとこういう意味では一切寂しくない。書いていたら読む人が現われるという意味では恵まれているという節もあるが、いっぱい読まれるみたいな承認欲求ではなく誰がこれを読んでいるかという読み手の存在のほうを観測している。
人格とか人の存在を条件とか相対的に捉えるのも、肌感とか絶対的な自分が相対的でしかないと分てているからなのかも。
時間制限。
ここまで。
おやすみなさい。
良い自分を。