22:09から。
「わたしはわたしを持っているのか、わたしで在るのか」
お仕事。
相変わらず引っ張りだこ。
人が寄って来るのが嬉しいのではなくて、僕と関係した人が嬉しがるのが嬉しい。この欲求は何て言うのだろうな。承認欲求の亜種ぽいが、自分すげーとはならない。
重い案件が1つ。重たいからかいがい女子では無理だとスーパー事務が言っていたが、いや、僕だってキャリア1年しか変わらない。この信頼感とは。たしかに先輩女子でもすぐ投げそう。結果的に成果になるかは不明だが、成果にならなくても過程に意味があるとは思っている。
別におおっぴらにここを言語化なんてしないけれど、だから変人に捉えられるのだろうな。
もう1つの案件がまた面白い。
お客様が、大学受験生であれば全国必ず知っている東大ではない超トップの大学に入ったけど、やりたいことが無くて中退したという変人。大好物。卒業しなかったことに対して特に勿体ないとも思わないとあえて言わなかったけども、雑談がアカデミックになって面白かった。
僕がこの人と同い年だったらこんな話はできなかっただろうな。一回り以上は年下の先輩。僕の大学時代は今ほど認識がはっきりしていないし、自分もそれほど固有では無かった。こういう意味で、人と人の縁って面白い。大学受験からとうに離れた今の方が、知識に対して素直。
僕は文系の学部で、お客様は理系だった。なるほど、理系的な興味ってそういうことなのかとうきうきしながら聞く。化学とか地学で世界を解き明かすことに興味があったのだとか。僕もそろそろ地学に手を延ばそう。
経年でアドバイスをする気は無いのだが、なんとなくここに興味が失せたのもちょっと解読してしまう。人間世界はそんなにルール通りというか、定義通りにはいかない。当人教育的に人と関わるところに興味が沸いている模様。教育は文系でも理系でもなく、哲学寄りな気がする。
某大生って東大生より変な人が多いイメージだけど実際はどうなんですかって聞いたら、「変な人の定義によりますけど」という枕詞を導入してきて、まさか雑談でそういう発言が出てくるとは。個人的にお友達になりたくなったとのは言うまでもない。定義遊びできそう。
僕がお仕事で遊んでいるのはこういうところなのだろうな。
人と関わるのはお仕事の舞台だと不自由でしんどい。お仕事は「できることとでないこと」が明確に分けられている。その中でも「聞くこと」は自由だったりする。
プライベートな関係は「できることとできないこと」は分かれていないという意味で自由だけど、「聞くこと」は不自由。だって、何を話せるかが関係の中で決まっているから。
お仕事だと、店員って刹那で通り過ぎる関係だから、逆に「ロバの耳の穴」にしか話せないようなお話が聞ける。なるほど、教会に懺悔制度があった(今もあるのか?)意味が分かる。脚色なく人の話を聞けるのは、無関係な人にしか無理なのではという説。
このお客様がなんとなく話が通じる「硯」とは何者だと感じたかは知らない。
クレームをいただいたお客様には「40年客商売をしているけれど初めてのタイプ」だと評された。
やれやれ。
人の幸せって、24時間の中で2時間充実できれば良いらしい。
なるほどなぁと想うのだが、これだと勿体無くないかとも思う。
たしかに僕のようなタイプはどうあっても1人の時間を確保することが大事なのだが、1人ではない時間も楽しめるしなぁって。
僕の日常において、幸せはあんまり定義されていない。
外から「幸せか?」と聞かれたら幸せですと答えるけれど、これを聞く人ってそんなに幸せを定義していなさそう。
定義って論文とか研究でない限り外向きにしか大事でない。共感的になんとなく使われいる感じとしても言葉。
内側に向ける定義の方が当人にとって重要に違いない。
僕は幸せとか充実とかみたいな定義はどうでも良く、楽しいという「感じ」の方が良い。内向きの定義は義務っぽくなるんだよな。
知識を認識にしていくことが楽しさの秘訣だなと思っているのだが、外から見たら知識も認識も同じものとして見えるに違いない。内向きだと知識はコピペとしてしか使えなくて、認識は内側の思索の道具として扱えるという感じ。
なんだか早めに終わったな。
凄くどうでも良い個人的なQOLとして、洗い物は寝る前でも気付いたらやっとくという行動規範が追加された。別に満月さんがどうということでは無く、これをやっておいた方が自分が気持ちいいというだけ。満月さんが料理担当の日に洗い物から始まるようなのはさせたくないし、明日の自分にも洗い物から始めさせたくないという認識。
人生劇場の行動指針になるのは知識でも外圧でもなく、認識なんだろうなという見識。
他の人は知らないし、別に他の人も同じような認識に至ればいいとも思わない。
だって、相手は別の存在じゃん。
おやすみなさい。
良い夢を。