23:04から。
お仕事。
半日で人の認識を更新する大仕事。本当にそんなことができるのかと思われそうだが、自分が容易く認識を更新できる(される)存在と認識していれば相手のことも何とでもなるのかなと思ってきた。結局は満足が大事。
夕方おにぎり2個を飲もうとしたところで、もう1人。
こちらで扱えない商品に決めたと思ったら、迷っていて僕との迷子道中が楽しかったとのことで還ってきた。こうなるともはやファンだと思われる。これも僕が迷子を楽しんでいるからのこと。
相手は鏡。
情と呼ぶのか情けと呼ぶのか、そういうモノを集めてしまう質。
それが重荷と感じることは無くもないのだが、若い人の情け(恋愛感情は除く)は軽めで良い。本日のお2人は若めの女子。男子も同じようなもの。老年に迫りつつあるおじさんとしては責任は重大だが、正解は無いよという認識を教えれば良いこと。僕の言う通りで認識する人の方が困る。
考えないと生き延びられる時代では無くなるよというところまでは言わないけども、まぁこの人が言っていることはまぁまか理に適っているなと認識されるくらいで良い。
という感じで、かいがい女子とはお話しする暇が無かった。
別に機会が無ければそういうもんだという感じであって、特に話したい訳でも無い。
これを情が薄いと捉えるのかはともかく、人と縁ってそんなものだよなという認識だもんで。
親族の退場のバリエーションで学習した。未だに僕はいまの僕で話してみたかったと思っているけども、縁が無かったという解釈であって後悔ではない。どういう世界線においても、当時の僕には父親の退場を留めることはできなかったし。タイムリープしない限り。
かいがい女子のことももったい無いとは思うけども、僕如きが話したところで世界線が移動される訳でも無い。だとすれば、言いたいこと言っておきたいというのはあくまで自己満足の話。僕はそこまで自己満足の世界で生きていない。
本日あんまり日記時間が無い。
別にどうでも良いと言えば良いのだが、僕が読書と日記を自分の時間として確保したいのは、趣味だからではなくて精神の運動という認識。自転車で出勤しているのと同じような塩梅。運動して居ないと凝り固まってしまう。この自分で良い人なら、何も行動しなくて良いのだが、僕はどうもまだまだ足りないという認識だから運動を辞めたくないだけ。
脳を稼働するためには身体を動かすことだという書籍を読んでいる。
ちょっと分かる。脳は身体の運動に引きずられている。脳が自我ないし自意識だから運動を継続しないと若者ですら駄目になる。
読書とか文章を書くことは脳(精神)自体の運動だもんで、こちらの方が効果がありそうだと思っている。もちろん、身体の運動も少しは継続しないといけない。たぶん、自分の身体が勝手に無意識で動いているということから脱却すれば、日々の身体の動きも意味あるものになりそうだけど。
効果というよりも過程の方が大事。
あえて利き手で無い手で日常動作をやってみるとか。
人間関係自体が自分とは別の存在との運動だから、人と接するのも運動なのは確か。
運動できる人間関係であれば、時間をかける意味がある。
なんだっけ。
「人でなし」の怖さは、小説なのに日記っぽいから。
抽象化すれば、小説も日記っぽいよなと思う。日記って別に当人の1日の全部を書いている訳ではない。どこまで行っても、「今日は晴れ嬉しかった」みたいな細分化でしかなく、書かれていない部分はある。
小説も表現物だけど、表現物全般がどれだけ文字数とか解像度を細かくしたところで、作者の全部にはならない。表現とは何ぞやというと、よちよち歩きの人はどれだけ盛るかになるけど、最終的にはどれだけ削るかという話になりそう。
要は、何を削ったかの方が表現の価値を明らかにするのではという話。
本日文字数が少ないのは物理的に時間が少なかったからだが、冗長に文字数を増やしたところでそこまで運動にはならないのかもしれないとも思ってきた。
はい、ここまで。
0時ぎりぎり。
おやすみなさい。
良い夢を。