激しい雨音をBGMに寝付いた昨晩。猛暑の夜に積雪の夢を見る。
買ってきた歯ブラシをコップに入れると歯ブラシ同士で接吻している。
さておき。今日もこんばんは。
日常なのになにか楽しい一日の話から。
仕事。同僚との会話量が多い。これも仕事だ。
いや、必要なら会話くらいできるのだが、なんだか勝手に外に開いている感じ。
もっと素朴な自分で開けよという啓示なのか、ミスをした。謝った。全然、と答えられる。
毛穴がぶあっと開きつつ、そんなにやらかしていない思っている人格。ナチュラルな状態だったらこれは起こりうるものではないから、あえてやったんかという観測がある。
完璧にしっかりを続けるって人間には不可能だし、こういうやらかしは世界線の移動みたいなところかもしれない。こういうことは時系列の節々であった。人格の決めつけに対する反発みたいな。
僕は自分について精神疾患傾向が全くない健常者としていないし、世の中に健常な人は居ないと思っているから、こういった死角みたいな事象は注視対象ではあるが、自分に対して注意することでもないとしている。明らかに不注意がやらかしたことではない。素朴な僕はもっとやれー、むしろ他己評価が更新されろとか囃し立てる側。
精神疾患と言えば、「最終講義」で、疾患の分類によって、分かられたい、分かられたくない、分かられることを期待しないという症状があるのだとか。僕は三番目の躁鬱傾向と近そうだが、分かられないことに対して何か調子が悪くなることはない。むしろ分かった気になられるのが調子悪くなる。
ちょっとこの話は置いておこうと想ったが、「文学理論」でサルトルの理論における「他者」という話と近そう。他者は存在でも対象でもなく「まなざし」だという解釈。恥という観念ここと近い。要は、他者のまなざしの設定は具体的な人を見ている訳ではなくあくまで内観だという話。僕はこれをずっとやってきてこじれているなという感じ。
他者のまなざしはあくまで創造の範疇なのだが、自己が創造する他者によって自分が制限されるという次第。これは言葉だったり、機嫌による振る舞いだったりで、自分が具体的な他者において存在していて良いのかという疑義が起こる。
こういうまなざしは対自己でも起こることで、意識で観測する自己のズレが意志として言語化されることになる。やろうとする意識と、動かない自分の体のズレ。僕の素朴は意識も体も他者としていないからそこにタイムラグはない。
閑話休題は、ないか。
カルパッチョが美味しかったレシピとかあるのだが、今日はここに言語化は無さげ。
自己の客観化はまぁまぁされていると思うのだが、本当にそうなのかというと、常々まなざしが遮ってきてよく分からない人生劇場。人は基本的に他人のことを制限したりコントールしようとして他者を表現する。
言語が表現ではなく規定だというアランさんの言。
たしかに、言葉によって自分が決まっているとしたいのは分かる。すげー分かりやすいから。自分を決めるということは世界に対するまなざしを設定できる訳で。
言葉はまなざしではなく表現であるということに回帰するのが楽しそう。
自分を伝達するって生来的に不可能なのに、自己紹介で伝わると想える不思議。自分が書いたことが承認されることが嬉しいっていう素朴な感覚も分かるけども、僕は駄目。そんなことで暖を取れないし、暖を取る必要が無い。
かつての文豪さん達みたいに内部でごーごーうねっていることを言語表現的に小説化するみたいな欲求もないし、別に書かなくても過ごせるという節はある。読まれたいから書いて居るというという規範はなく、書いたら読む人は居るだろうなという感。存在の承認と連動しないから、スターとかスキを付けるという意味で読み手として認知されることを排した。ほんとに僕と関わりたいならそういう機能を使わずにやるはず。
読み物としてだけ人と関わるって、なんかおかしくない?
この感覚、別に現代的ではないような。相手に読まれたら自己が承認された気になるって、読み手の存在は何処に行ったのってなる。なにしてるのか。
僕は別に1人で生きていることにまなざし的に罪悪感は起こらないし、パートナーは1人で良いから、割と有能物件とは思うが、ここに居場所を取るのはそうとう大変だと思う。浮気とかではなく存在論的に。
だから、あえて大事にできるという物語。
はい、おしまい。
おやすみなさい。