白と黒

見知らぬ場所に行って帰ってきて、電車の窓から眺める街並み。見知った場所なはずなのに異邦のように見える。悪くない感覚。日常空間も旅先みたいなもの。


休日は平日よりも睡眠時間が短い傾向がある。これって何なのだろうと解釈してみると寝ているのが勿体ないのかもしれない。ごろごろするのも一種の活動。何もしないなんて、何かを選んでいるだけで、人は生きているだけで常に動いている。

朝ごはんはうどんを食べた。水が無かったから自販機に買いに行く。ついでにカルピス。朝顔と久々に挨拶できた。仕事場の方針でシフトが後ろ寄りになってなかなか早朝に逢えない。お昼はコンビニでレトルトカレー。水を2リットル、コーヒー、お茶も買う。ちょくちょく買っているけど、カレーってあんまり好きじゃないかもしれない。きちんとしたカレーを1回食べてしまったからだろうか。今度食べる衝動が出てきたら自分で美味しいように作ってみよう。とろみは粉で出さずに、玉ねぎのみじん切りをゆっくり炒めてとろとろにして醸す。

カレーが美味しい料理だという文化は、ラーメンとちょっと似てそう。濃い味が美味しい。
個人的には、周りが美味しそうに食べていたから美味しいものだと思おうとした節がある。どちらも時々食べるから美味しいという意味では嗜好的な料理とも言える。

某中華戦国漫画のアニメを眺めつつ、洗濯とかしていたら理容院の予約時間がぎりぎり。急いで行ったらやや汗だくになって、髪を水洗い、手乗り扇風機で涼をいただきなんとか落ち着く。汗は自然現象だが、やや穢れ感がある。公共空間では汗かいてはいけない。

指名制度ができていたから、話し易い理容師さんを指名してみた。ポイントがいつの間にか貯まりに貯まって、合計がワンコインで収まる。どうやら引く手あまたらしく、ちょっと待つ。店長さんが指名されないのは、仕事振りが定型的になっているからではと想像。雑談は添え物だからこれが根拠になる訳ではなく、切ってもらった髪型が馴染んでいるから。

僕はどのお店でも細かく注文は付けない。だって、自分の髪型が上手くハマる像って自分では分からない。ざっくりイメージだけ伝えて、プロフェッションのセンスに任せる。かつてはかっこよくしてくださいとか、眉のイメージとか言ってみたが、この人はちょうど良いから任せている。カットを等閑して手が止まって雑談に盛り上がってしまうのも、もしかして時間調整かと思ったり。

健康診断の為に肉体改造したらしく、腕の存在感が凄かった。血管が浮き出ていると自分で仰っていたけど、僕の腕も血管具合では負けてなかった。ビフォーアフターの画像を見せてもらった。これは外のお客さんからリクエストされたから用意があるとのこと。最終的にはボディビルダーみたいになっていた。見映えがあるように部分的に鍛えたとか。

たしかに凄いとは思った。制限と時間をかければこれだけ人の体は変わるよなって。
ただ、何もかけてない自分の体の改造具合を眺めているから、それほどの感動はなかった。食べたい物を食べているし、自分の肉体を鍛える時間を設けていないのに、腹筋がやんわり割れだしている昨今。運動も日常時間でしかやっていない。腕筋が何故ついているのかもよく分かっていない。動いているときにどこの体が動いているかを意識するというのが良いのかも。

さておき。

昼過ぎの予約だったから、いつもはやってもらわない髪のセットも付けた。自分でワックス付ける時は前髪は下ろして分け目を付けるのだが、この理容師さんのセットは前髪を上げる。僕のおでこはほんと猫の額みたいな面積なのだが、顔のバランス的にはおでこが見える方が良いのかもしれない。理容師さんのセンスへの信頼。

恋人さんに送り付けるために自撮りしてみたら思いの外うまく撮れた。僕は自他共に認める写真映りが悪い顔だから、基本的に地鶏が上手くいかない。これは顔の調子が良いということだ、このまま遠出していいとなる。そのまま電車に乗って目星を付けていた公園に向かうことにする。

駅に付いて、徒歩40分弱。ホームページのアクセスには載せられない移動時間。駅からはバスに乗るべきという指示を無視して歩く。グーグルマップが途切れているところはたぶん歩きだと繋がっているだろうなとずんずん行ったら階段だった。住宅にしか通じていない階段はその前に看板があるはずだとの経験則を信頼しつつ、もしかしたらという不安をブレンドして生を謳歌する。

たどり着いた目的地。アトラクションがない自然公園としては入場料やや高いが、個人的には大好物な場所だった。なにせ、人があんまり居ない。僕がこの辺りに住んでいたら年間パス買っても良いくらい。まぁ、本屋さんがなさげだからたぶん生活圏にはなりえないのだが。

カラフルに咲いている花々。綺麗だなと感じる。
ここで一瞬の思索。こういう自分と無関係のものに対して美だと感じる余裕は今までの人生劇場でそんなになかったのだろうなって。綺麗だと感じる自分の感性に酔うでもなく、誰かと共有するための話題でもない、ただの自分の再生産。新規の概念に触れるでもない。何者でもない自分が世界を捉えている像の把握。

お目当てのリュウゼツランがなくても何も問題がなかったのだが、やっぱりあった。盛り上がる劇場。電動車椅子の女性と、付き添いの女性2人が、盛り上がっている。数十年周期だからもう次は無いなって。僕もご相伴にあずかる。

人がごった返していない理由も把握。そんなに色をアピールするようにできていない花。分かりにくいから新聞には載ってもテレビ映えはしないのかもなって。個人的には虫がいっぱい集まっていて糖度高そうとはなった。原産地ではテキーラの原料になっているのだとか。

そこから園内を30分かからず一周して、そうそうに退園。
時間をかければ良い経験ができる訳でもない。時間制限がある場を求めるのは、時間をきちんと捉えていないからではないか。

二度とないという一回性は、リュウゼツランに限らず日々全部そうなる。
反復する生活劇場は、同じとして概念で括るからそうなるだけ。これが言葉の呪術。花という言葉は無数の花を一括りにするし、桜も毎年ただ咲いている同じ花になる。

ほんとは同じ花は二度と咲かないし、同じものだと括れる人間の脳があるだけ。

これって、人に対しても同じこと。
ずっと同じで居られる存在はないのに、言葉で自分を定義するからラグが起こる。

僕は別に誰にも依拠しない自分で楽しめる。かといって、誰も居なくて良いでもない。

承認欲求がないのは承認があくまで他者のまなざしでしかないところ。
承認に依拠しない自分って唯我独尊のお釈迦様みたいなメンタル。

はい、おやすみなさい。

良い夢を。





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