時間に不足はない


朝ごはんはお蕎麦、昼はてきとーな豆腐鰹節丼、あとはごろごろしながらゲーム。言葉がない世界に移動する。頭の中にも特に言葉は浮かばない。でもこの位相ないし次元って何も考えていないことはないし、むしろ言葉から自由になっている。この自由を捉えるのも言葉ではない。

言葉を交わすのが億劫だなと思う。母親からの着信があって、折り返ししないとという義務感。一応この事態に心配になって生存確認のためだったらしいが、存在の確認って通話でできるものなのか。

元気な声は元気でなくても出せる。世の中には元気がないときこそお喋りになる人格とかがあるし、元気と無関係に定型文で話せるのが社会人。

存在に対する評価も本当にそうなのかは言葉では分からない。ただ、ここは言葉に縛られた人格同士であればある程度の共通項ができる。僕も数年前までは言葉に頼っていたし、今もちょっと名残がある。ただ、この観念はなんというか、存在に対して疎い、もしくは遅い。

あくまで僕の話から始めるが、僕は誰とも言葉を交わしていない時の方が頭が活発だし、言葉を交わすのが億劫なのは頭を使うからではない。むしろ頭を使えなくなるからだと気付く。人と話すときに言葉を準備するのは悪手。だって、会話はナマモノだし、流れに乗ったり流れに乗せたりする移ろいの空間。あえて自分の舵に誘導することもできて、無意識でやっていたこともあるし、相手の流れに任せることもある。

億劫でない会話はこの自分で居られる人。

もちろん、この理由によって言葉が悪くなることはない。
今日眺めた記事に、「言葉は名前を付けて物理界に存在しないあいまいなものを物理界に存在させることを許すことだ」という主張があった。聖書みたい。「言葉あれ」

例示に、空間に配置された物質が挙げられていたような感じ。この物理界っておそらく当人、あるいは、その言葉を読む(聞く)人の宇宙ってことなんだろうな。言葉にすることによって宇宙の事象が物として分離される。ただ、そういう触覚とか視覚みたいな領域に留まっていないのが言葉。物理界に存在しえないものだって宇宙に存在させられる。例えば国家とか常識とか認知とか。

どうでも良いが、夜ご飯の帰りに家賃を払いにコンビニに行ったときやたらと並んでいてなんぞやと思ったら、レジの1つがレジの役割をなしてなかった。パジャマ姿の子供を連れてきている女性がレターパックに書き込んでいる。馴れている店員さんだったら、書き込みはあちらのスペースでやるだろうし、僕の中の常識では、レジはそれをそれをするスペースではないとなる。だってその行動で店員さんの時間を取る必要がない。郵便局だったら分かる。

失礼になるかもしれないが、こういう行為をする人でも何か精神疾患と認定されることはないのだろうなって。要は社会的な最低限の認知機能は、おそらくもっと下限の生活にある。むしろこうやって場所を取れることは健全の領域なのかもしれない。

これも今日眺めていた記事(もう更新していないところでスキがあったため読み返しに行った)で、PTGという言葉を発見する。トラウマによる成長みたいな意味だったか。現実感が無いのがしんどいことだというのは分かる。ただ、僕がしんどかった時期は現実感はちゃんとあったし、人ともたくさん接していた。

そもそも、現実感って物理界に存在しているものではない。あくまで言葉の定義だし、なんなら習慣みたいな意味合いしかなさそう。生の促進で言ったら、不快と快が波打つのが現実だし、非現実の要素が入って来ないと現実が成り立たないような。

僕はこういう言葉遊びは止めつつある。現実は物理界と社会界の観念のブレンドであって、生の現実は言葉化されるより前にあるから、あくまで観念のとしての空間の物質化でしかない。大丈夫、ちゃんとそこで舞える。

もう1つ。趣味としての読書の話。筆者が趣味は読書と経営者の友人に言ったら、何を読んでいるのだと問われる。小説ですと答えると、啓発本とかビジネス本を読んだ方が良いよとアドバイスされたのが発端。

小説を読むことに意味はないという結論は良いと思った。娯楽という表現はちょっと違う気もする。楽しい小説だけ読んでるのであればそうかもしれない。あと、ちゃんと学習するのであれあば、インスタント本ではなく専門書を読むべきなのでは。知らんけど。少なくとも教養本とか。

個人的に、小説を読むことは娯楽ではない。娯楽の定義ってたぶん、自分の存在に影響がないことだと思う。影響ない非生活。でも、自分が見た世界に影響を受けるか否かを決めるのは、意識ではない。影響を感じるという意識がなくても、無意識は影響されるから見えるものは須らく娯楽にはならない。

見えない影響ということであれば、小説はそうかもしれない。
詩とかもそうか。創作領域。でも、全く影響されない世界って世界として成り立ってないような。記憶領域が作動できないところでも人は世界に影響されているし。

本日お手紙を書いた。
僕が手書きに緊張するのは、字が下手で悪評価を受けてきたから。手書き時代だったら僕は文章をここまで綴れることがないという意味で、生まれたタイミングが良かった。

書いていて、言葉と存在の関係を考える。
どれだけ言葉にしようとしたって、言葉と存在が完璧に一致することはない。発話だって言い間違いはあるし、文章だって誤字がある。

それを当人とするのは、なんかずれてないか。

いや、僕はポストカードに書いた言葉を自分の存在であって良いとしているし、誤字も含めて自分。気持ちを完全に表現するのも無理。これはどれだけ時間があったとしても。

これを考えると、人の本質は時間でも空間でもない、もちろん言葉でもないところに生きているからでしかなさそう。

これに対して現実感がなく生きていると言われたら、相手に対して貴方の現実はどの時系列の社会観ですかと言っちゃうけど、僕の文章、色んなところに書いていて批判は一回しかない。ハルキスト云々で、対話もままならなかった。

ここまで。

おやすみなさい。

良い言葉を。

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