代謝

14:49から。

年末年始の連休。

生産的で無いと楽しくない。

ぐうたらするのも良いのかもしれないが、休み日こそ動かないと。

労働は位置の移動はあっても当人は動いていない。

だから、毎日が同じと感じる。

精神的な動きは感動とか思索、肉体的な動きは位置の移動(旅行とかドライブ)ではなく散歩とか運動になる。どうでもいいここを考える方が、必要なことに対して論理を組み立てることより生産的。いや労働的なところも他者から分かるように論理的な言語化をしないとなとは思っている怠惰。

と、昼から飲んだくれが宣う。

本日は昼前まで寝て、満月さんが回した洗濯物を干し、追加で2回転、うちにある洗濯物は全部片づけて、コンビニに行ってゴミ袋(とビール他諸々)を買って、燃えるゴミとペットボトルをまとめ、啓発系チャンネルを流しながら、宅建のお勉強を少しして神道のkindle読み放題本を読むなどした。

ビールを飲みながら。

真面目くさった場では心理的安全が確保できないから収集率も稼働率も低くなる。

どういう方面においても努力ができないもんで、つまみ食いしながら動くのが好き。

きちんと言語化できるものだけがちゃんと採り入れられているものなのだろうな。

採り入れてしまえば記憶という外部媒体ではなく、当人の人格に含まれてしまうかい思い出すというスイッチが不要になる。

いや、ほんとこういうことを書くと意識高い系と混同されそうで嫌なのだが、飲みながら知識を食べるような者はそういうクラスタにはあんまり居なさそうだから大丈夫か。知識(記憶)としては明日忘れるか一週間後に忘れるかくらいの違いでしかないもんで、

啓発系のチャンネルで、何かに対して動かないことを、「原因」ではなく「目的」で考えるようにするというのが聞こえてきた。ちょっと分かる。しないことを決めているのは原因ではなく、目的だという話。

例えば、僕は仕事のとき店長が指示することを100%は行動しない。

というのも、成果を目的とすればたしかに指示に従った方が良いのだが、僕の仕事の目的は成果よりも調和の方が優先度高いもんで、そこまでがっつけない、からできない、というかしないことがあるという風に。

ここでの趣旨は、何かしないとき、それは外側の原因がある訳では無く、当人の意識・無意識の目的が決定しているということであって、本質は内側にあるということ。

これはする方向だと目的的な人が多いと思うもんで、あえてしない方を例にした。

個人的にはこの考え方に全振りすることは無い。

素朴な自分は、原因でも目的でもないところで動いている気がする。本日も自分に稼働時間が増えたらどうするかということを放置して観測していたらこういう日になったし。

何故やったのですかみたいな原因とか、何の為にやったのですかみたいな目的を問われても困るなぁって。ただ動けたからやったで良いような。

そうすると他者は僕を統制的に把握できなくなりそう。志向性が無い存在の動きは期待できなくなる。というのは杞憂であって、公私であんまり人に嫌われていないから問題無さげ。

この文脈で、他者を原因的とか目的的に捉える人は優しいと捉えられがちだが、尊重はしていないなと思う。尊重と無関心が結果的にとても近い位置にある観念だと捉えていて、言葉の難しさを感じる。

原因的ないし目的的に捉えられる他者の分析。

啓発系の続きだが、この前読んだ平野啓一郎さんが考える人格論という話があって面白かった。

曰く、人は分人であって、どの場面で出てくる自己も全部自分だという説。

ここはとても分かりみ。

ペルソナ論よりは現実的というか、実体に近いと感じる。

人の人格は、相手と環境によって変わるものだが、どういう意味合いにおいてもそれは当人の存在の要素。だから、自分にとって嫌な分人が出てくる相手と環境を避けて好きな分人が出てくるところに身を置くべきという話。相手と環境が良くなれば自分も穏やかになる。

統一的な自我が1つしかないというみたいな変な人格論よりはとても分かり易いような。

他者側から見れば、相手(主人公)が変なことになるのは、環境が悪いか自分が相手にとって悪い分人を引き出す要素になっているということ。

個人的にこの話、結構腑に落ちる。

素朴な僕は特に承認欲求も無いし、反社会的(歩き煙草をするとか)でもないのだが、環境によってそれが当たり前な場になると変な感じになる。

その変な感じなる自分もまるっと自分にした方が、生き易いというだけ。

就活の自己分析みたいに社会に役に立つ自分を探る必要はないけれど、どういう時と場に居る自分が心地良いのかという意味の自己分析はした方が良いかもなと。

学術畑でもない人が心理学的な人格論を学習している訳でも無いけれど、学問上最も分かり易い人格論が当たり前として採り入れられているから、自分の人格は1つしかないという不具合が生じているような。

自分の人格が部屋である心象風景も何かの流用な気がする。ユングさんかフロイトさんか。

僕もある時期までそういう解釈だったが、今や心に部屋が無い。引きこもりから脱却しているというか、たまたまもともとの人格に反社会性が無いのかは知らん。

この穏やかさは学習して培ったのではなく、色々知って衣を剥がしている結果だもんで。

この自分で良いのだと思えるのは、たまたまこの社会に生まれた偶然のたまもの。スピリチュアルの世界観だと必然としそうだが、そこまで世界に依存していないし。

最近満月さんのぐーすかぴ―問題で僕の睡眠時間が脅かされているのだが、分人論としては、満月さんは他人ではなく存在しているということになる。僕をイライラさせるなんて大したもの。逆が然りかどうかは要観測。

けなしている訳ではないのだが、満月さんが原因か目的か非言語かで生きているのかが未だに分かっていない。何処か好き? とか聞いてくるところからすれば原因論の世界観なのかもしれないが、原因の世界で生きている人がシュールレアリスムを専攻することは無い気がする。

知らんけど。

とりあえず、エクササイズできたのでここまで。

良い年末の夜を。

また今度。

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