20:07から。
夜はまだまだ。
年末年始の連休中。
本の虫がムズムズしたもんで4件本屋を梯子した。
もちろん満月さんはお仕事、1人でないとこんな所業はできない。優れているのではなく変態なだけ。
休みの日って、労働の日との対比だけど、休息方面は仕事の日でもできるし、呪詛を解放する為にぐうたらするのも違う。僕は、仕事では動けない方向に動くらしい。
これを「欲」だと定義されるのもちょっとおかしいと思っている。
欲って足りないことを足す動機なのだが、別に僕は足りないことを足す為に動いていない。ただすることは何だろう、これだろうという感覚だから、本日電車の待ち時間が30分ほどあったから無駄に歩いたことも別に合理的な欲としては観測できない。
したいことをするというのが現代の「自由」の定義だけど、僕としては自由についてはとてもどうでも良い。
自由って、別に何でもしていい、できる訳でないのが現代社会であって、変な話、提供されているだけ。一種のレトリックでしかないという。
ちょっと、現実に戻して。
一昨日と昨日は、満月家に行って来た。
満月家のお母様と満月さんの喧嘩にも遭遇する。あんまり詳しく書くのも憚られるのだが、個人的にはどちらの論理も理解できる。時間の流れがずれている、もしくは言葉の持ちようが違うという感じ。どちらかというとお母様寄り。言葉よりもまず行動があるという立場。
僕は自分も含めた人の言葉と行為のラグがなんだか変だなぁと思ってきたもので、お母様が起こる気持ちも分かるし、満月さんの言葉と行動のラグの世界観も分かる。
別にどちらの立場もディスっている訳ではないし、特にnoteに細かく書いて、どちらが正しいかみたいな俎上に上げるつもりもない。
個人的にディスるとすれば、かつて(今も含む)の自分に対して、いつまで時間があったらこうするみたいな空想の時間の中で生きているのだろうっていうところ。僕は誰よりも自分を馬鹿にしているので、そんなに人のことを馬鹿にできない。僕と同じ水準で生きている人なんて居ない(変に健脚とか)し。オトナになると自分の身体はなるべく動かさなくても良いじゃんとなるのは確かだから、僕はオトナではない。
まぁ、お散歩はとても良い。土地勘が無いから、歩くことで学習できる。仕事にも使えるし。なんてことは外面の話であって、単に、身体を自分の意志で動かすことで自分に調律できるし、頭の中も整理できるし、日常において時間を創るべき項目。
本屋さんの梯子は正直空ぶった。
満月さんの実家に行った時に栄駅のジュンク堂で見つけた民法の本が気になって探してみたところ、出逢えなかったという。ネットでぽちっとすればすぐ手に入る世の中だけど、個人的には本日一日探して見つからなかったということは、縁が無かったという解釈で良いという気もする。もしくは気になった時に買わないともう遅いという速度で過ごしているのか。
いや、専門家でもないのに民法が気になると言う人物はパートナー界隈ではすぐ逃げた方が良い物件。
ともあれ。
民法の面白さがやっと分かって来て、個人的には嬉しい。
民法とは何ぞやと一言にすると、「市民社会の法(ルール)」なのだが、現実社会に生きているオトナのほとんどが民法を知らないと思う。知らないことを補充する為に専門家が居るのだから当たり前だが、個人的にはこのズレはとても落ち着く。
要は、民法って市民としての劇場の踊りのルールみたいなもので、その踊り方を知らなくてもだいたい踊らされているという話。
社会性が無い人こそ習得すべき項目であって、知らずとも踊れる人には知識が無くても大大丈夫なのが社会。
民法学という学問がそれぞれやっている領域に対して正しいと思わなくても良くなることが大人の醍醐味。正しい情報として取集しようとしたらどれだけ頭があっても足りない。
あんまり細かい話をするとマニアック。マニアックな話も書きたいところではあるのだが、書いたら書いたで、情報っぽくなる。僕は情報アカウントにはなる気がないもんで。情報を知りたいなら、他の傾注したコンテンツがあるし、なんなら自己満コンテンツでもない。
文章を書けるような人はきっと社会科で「公共の福祉」というよく分からない言葉を習った思う。定義も社会全体の利益という咀嚼できない言葉で終わっている。
これ、憲法とか刑法、ないし商法だと割と指針がしっかりしている。
憲法とか刑法の公共の福祉は、国家が国民の権利を同調整するかのものさしであって、特定の個人を対象としていない。類型化された諸々の個人の利益と、国家としての秩序をどう調整したら良いかという福祉だから、裁定者の主観で動くものではない。商法でいう合理性は経済の最大化だとすれば割と一元的。
どうでも良い推しの憲法学者さんの話。
面白いことを書く人で、そのうち教科書を書きたいというコメントがあったことを覚えていたのだが、やっと書けた模様。
買って読んでいるのだが、面白い。
従来の憲法学の本とは若干読み味が違うような気がするが、旧来の価値観とは離れた世代で良い。同性カップルと、生殖を目的としない異性カップルを比べたら結婚制度は不合理というのは尖っている(賛成)。
専門家界隈では通じないかもしれないけれど、法律で専門職になれる人は学問でやっている人ではなくて、実務に合うかを問われているから、なかなか合理的な試験だよなぁと今更。
で、民法における公共の福祉の合理性。
いったい何が釣り合っているのかが分からないことが多い。社会の中で秩序より内側のところだから、当事者の公平性が問題になってくるのは分かるのだが。
最低限かというと、そうでもない。
だって、ほとんどの人が制限行為能力者とか対抗要件とか不法行為とか知らない。
いや、僕の個人的な世界なだけであって、もっとエリート層では当たり前に法的素養がある層という説があるが。
ここで、分かり易い例。
芸能人の不倫とか性加害をやたらと叩く人。
変な話、言葉でどれだけディスっても表現の自由の範疇だけど、なんというか、法的に責める権利は部外者には無い。にもかかわらず、我が正義だとして時間を使って叩いている人が多いらしい。個人的には暇人としか思わない。
それで表現の自由を塞ぐのはやめておいていただきたい。
表現の自由の劇場をは社会劇場とも道徳劇場ともずれている。きちんと現実で生きている人は芸能人の非道徳を責める暇がない(辛辣)。
満月さんが、自分は道徳的だけど、硯さんは道徳的でないと言った話。
これはまさにその通り。道徳の定義は、「ものさしが主体側であって、やってもやらなくても良い」 あくまで、世界を観測している主体の視点。どれだけ他者を慮っていていても体調不良とか時間が無いときはそれができない。
法律は主体がどう観測していても適用を操作できないという公平性がある。
だから、現代社会は道徳をそんなに評価しなくなったのだろうな。教育としては法律感覚より道徳感覚の方が人情的で良いと思うが、人情だと平気で他人をディスれることになる。
僕は表現畑では無いけれど、社会に忖度しないといけない表現はやばいと思う。
これはあくまで表現であって現実では無いですよ、という前提が通じる人だけやってきてくださいで良い。
これが日本の法学教育の欠如なのだろうか。
いや、そもそも法律で規定しなくても道徳で最低限の秩序が保たれていたという社会観があったのだろうな。
いや、テレビ見てないから、その反射なんてどうでも良いのだが、そんなこと言い出す人と個人的な関係はできないよなぁ。そんなことより当人がどうで在るが気になる。これが聞けない人と関わる必要が無い。知らんがや。
小説。
本屋を梯子している時に探してみたところ、今生きている人の著作はどうも駄目。
何が駄目なのかを明確に言語はできないけれど、変な話だと、そんな時間は無いという説。
僕は結構満月さんとの共同生活を良い感じに試行錯誤している感じがある。
お互い仕事していて、帰って来てご飯があるなんてオカシイ。おかしくない?
パートナーシップがどうかではなく、僕がおかしい。
道徳観満載の満月さんが時間があっても、僕が仕事帰りにご飯ができていたことないし。僕が毎日ご飯を作っているのは時間があるでも能力がある訳でも無いし、問題は「毎日」
僕が外食嫌いなもんで毎日やっているけど、これが逆の立場だとしたら、満月さんはきっと作らないと思う。記念日に作る能力はあるけど、毎日の人ではない。作ったら感謝されるくらいの世界観。毎日作る人は○○で「良い」という差別感覚があるのだけど、通じるかは不明。
というとディスっている感じなのだが、そうじゃなくて、当人が自分の劇場でしかあんまり生きて居ないということに気付いたらええかなという気分。
満月家の家族の語用、それぞれ人をディスる。
愛なのかもしらんが、皆主人公で居たい模様。僕が満月さんをディスるのもこの系譜であって、ほんとはそんな語用したくない。
ほんとしたくない。
満月さんを馬鹿にする世界観なんて優位で生きる自分で安心できない以上、つまらない。
もっとチョコザップ行きたいだったら行けよーって。行ける物理的時間が無い訳でも無い。
でも、言葉のレトリックで生きている人からすれば、行動が遅いことが自分の汚点だから、なんか色々あるんだろうな。
僕はこういう時間軸だともうちょうと動ける。
言葉をレトリックとはしない。レトリックにすることが自分の存在とするのだろうけど、個人的には言葉は遅い。
おやすみなさい。
良い夢を。