現実と言葉

去年の本日はちょうど熱が出ていたとのこと。言われてみると確かに日曜日に1日だけ高熱が出たのだった。たしかたっぷり栄養補給してゆっくり寝て1日で熱が下がった。ご時世もあって1日様子見で休んだような。

なにせ日記みたいな文章が欠けたのがここ3年でおそらく2日くらいしかないから、欠けた日は残っている。いや欠けてない日も残っているが。残ってないと書けない。

これは僕が夜の時間を守ってきた証左でもある。ただ、毎日まいにち読んでいる一定数の人(想定)達が何故僕の日常の記述でしかないこれに飽きないのかは気になるところではある。読み物として面白いのであればそれで良い。僕も楽しんで書いているので。

僕が自分に飽きていないから読み物としても飽きられないのか?
まぁ、昨今の主流である自分の主張(存在)を承認されたいというごりごり感がないから箸休めみたいなものなのか。

まぁ飽きるまで読まれたらそれで良い。

僕は僕の外にこういう存在があったら、友達になりたいなとは思わないけど、きっと毎日読むと思う。割と毎日読むということに苦がない。毎朝見ている医療というか終末論のブログは、この爆発について明確な論拠を呈示していた。僕は割と正しいと思っている。でももはや遅い。

そういえば、昨日の記事について辛辣だとの評価。そんなに辛辣だったろうかと思いつつ、もしかしたら、僕の素朴はここにあるというところがなくもない。

思考も感覚も感情も体も現実も、言葉ではない。言葉にしないと読めないのは自他ともに同じことだが、読む人としての僕は、言葉だけで表現しようとするのは足りないと思う。

僕の文字が下手なこと。昨日ポストカードに書き終わって、なんでこんなに文字が一定でないのだろうと想う。おそらく伝達の機能を持たせられないからではという説。ピーマンを同じ幅で細切りするのはできるのに書く言葉が一定にならないのは、不器用さというよりそこを大事にしていないからでしかない。割とこの辺素直だから、ずっと下手でしょうがない。

むしろ、何か表現として遣ってないかという節。
絵みたいに考えれば、配置とか文字のカタチとかもっと変わるかもしれない。

僕の手書き文字の可読機能はきっとギリギリ。まぁ院の手書きの論文の定期試験で落ちたことないからたぶん読めるものではある。おそらくワープロ文字をモデルとしてないという感じ。だってそんなのワープロで書けば良いし、書き文字の機能はそこにはない。

訓練で写経してみたこともあったが、全然上達しないんだよな。

言語でしか表現できない世界という話。
言葉が世界そのものだという感覚は確かに1つの正しさだとは思う。名付けによって世界に顕われるもの。ただ、僕の考え方としては、名付けられるということは名付けられるなにかがその前にあるということになる。

だから、言葉はある意味独立的な存在そのものになる。名付けられる前のなにかそのものでもないが、そのなにかを表現しているという意味で。

言葉に価値が無いなんてことはない。
意識と癒着している敷衍みたいなことになると、どうも、となるが。

小説が娯楽という説も別にそういう風に読める作品ばかり読むという意味で良い。

ガルシアマルケスさんの小説は娯楽で読めるようなものではなかった。
でも、美味しい。自分の世界の味付けと違うのに問答無用で存在がやってくる感。これが小説を読む醍醐味だとしているのが、この感覚が共有できない人に説明できる言葉がない。

結局のところ、ふつーに考えて、人の存在が言語で収まるなんてありえないというところだから、誰とも通じれる気がしないでもないのだが、言語に収めて表現しようとする不可思議。

僕が書いた常識論は、あれです。その世界で生きている人と感覚を共有できれば、店員に当たり散らす世界が在りえないし、自分の世界線からはちょっとだけ拡張できるというだけ。

考えるリソースが無関係な人に配分できないほど余力がないのも分かる。
これが今のところの個人主義なんだろうな。

はい、おしまい。

おやすみなさい。



PAGE TOP