可能と物理



本日は趣向を変えて日々と無関係な真面目な話から。
結構話題にもなっているとか(聞くまで知らなかった)。

このご時世の補助金の支給を求める仮りの義務付けの訴えについての裁判のPDFがあったからちら見。いきなり専門用語だが、この訴えって行政事件訴訟法に規定された類型の1つで、行政に司法が義務付けられる前提には、補助金の支給が法律によって行政機関の権限とされた処分であるといえなくてはならない。ざっくり言うと、この処分は、行政が国民に対して一方的に権利義務の変更を法律によって認められているという意味。この裁判では、補助金の決定は法律の要件を満たした業者に全て支給するというものではなく、業者の申し込みによって審査して支給決定(承諾)するという契約のようなものであって、処分ではないと言う判断になった。

まぁここはメインではないため、これ以上は言及しない。要は、裁判所はコンセプトとして法的判断しかできないというニュアンス。

そうして、本題の国葬問題。

まず、僕はここに対して何か価値判断があるということはない。税金で徴収した国家予算の使途を国民個々の判断で決めずに選出された代表者で配分するというのが現在国家の設計だし、気に食わないという意見を言うのが表現の自由だし、それをした議員を次は選ばないというのが投票権だし。この隙間を調整するのが司法だという意見は当然ありうる。

ニュースで、国葬が違憲だとして、ある団体(団体というだけで胡散臭)が東京地裁に差し止めの申立てをしたというのがあるらしい。気持ちは分かるけど、これってそもそも申立てとして成り立っているのかというのが気になってしまうのが法律畑脳。

団体だから有利になる訳でもない(社会に対して影響力はあるかもしれない)し、申立てをすること自体はどんな内容であってもできる。内容不備だったら門前払いされるだけで。

ブレーン陣がそんなにちゃらんぽらんではないと推測して、どんな体を取った申立てなのだろうと想像してみる。

地方自治法だったら、設計が住民自治だから公金の支出自体を違法だとして訴えることは可能。こうやって愛媛玉ぐし料とか津地鎮祭の政教分離の判例が生まれている。ただ、国の行為の違法性となるとなかなか難しいはず。国家機関の行為を問う正道は選挙だし、事後的に国家行為によって権利を侵害された個人が損害賠償を訴えることができる国家賠償請求はあるが、今回はまだ終わっていない。

行政事件訴訟法をもってきているのかとは思う。ただ、そもそも予算執行が処分なのかとか。予算の執行に対する責任って、司法に問うものではなく、政治責任なような。

ここを越えたとして、何をもって憲法違反なのかという理屈。一目、政教分離をもってくるのかと思った。国費で神道形式の葬儀に予算を支出することはおかしいだろうという主張。こちらは国と宗教の癒着を問題とする視点。ただ、ニュースを見る限り憲法19条違反の主張らしい。

19条というのは思想良心の自由で、個人の思想を侵害するという視点。有名なのは君が代斉唱の際に起立させられる教師が自分の思想観を害する行為を強制させられているという主張で裁判になった例。

申立て書の原文を読んでみたいところだが、どういう理屈付けなのだろうな。君が代事件では職務命令で起立しろという具体的な行動の事実的な強制があった訳だが、国葬にこれを準えると、別に強制的に参列させられる訳ではないが、強制的に費用を税金として徴収されているということなのか。ここを使途として調整された訳ではないから、なんだかだいぶ離れている。

あと、自分が国歌を崇敬していると見られているという意味で捉えても、君が代ではまさにそれをしている自分が周りに見られている訳だが、今回は具体的な個人としてではなく、日本国民はそういうことだとおおまかに捉えられるという意味で、あいまいな評価に対して判断するのは裁判所の能力を超えているような気がする。

じゃあ、政治家が好き放題して良いのかいうのは、投票で是正されるべき問題なのではという話。個人がこれに対してどういう言論的評価をするのも当然自由。

という感じで、ここに書いたことも特に何が正解として書いている訳ではない。
ただの言語化してすっきりさせてみるという試行。

さておき。

僕の感覚はだいぶおかしいことになっているのはたしか。

記憶のリソースを無駄なとこに配分しているというフレーズに対して、それはないという立場。
だって、その残っているものに対して他のものが場所を取れないなんてことはない。人の記憶はデータの保持ではないし、そのデータが空いたら他のデータが入るみたいな世界ではない。

そんなご都合的に記憶を操作できる世界は、近未来SFの世界なのに、記憶を物とする人ほどそういう世界観がある。

人が何処で生きているという話を考えた本日。過去の事実を参照して今を捉えることは古典的な時空の因果関係っぽいが、ニュートンさんの世界観ではない。ニュートンさんは物理現象を法則化するという時空を創設したが、ここには過去はなくて時点しかなさげ。今の時点に過去は参照されない。

人は因果関係大好きだが、原因と結果とか、意志と行動とか、割と恣意的に捉えている。刑法に相当因果関係という考え方があって、物理法則のうちに何に(犯罪として)重きを置くかという話と同じ感じ。要は、人の意識の容量では全ての物理法則の因果を把握できないから、何を大事にするかはそれぞれになって、オリジナルの物理空間が精製されている。

何を相当とするか、何を大事にするか、これが言葉とならないと分からないというのはもっと別のところからやってくる。

「アンダーグラウンド」。地下鉄サリン事件のレポート。精神医学者が、これに対するダメージは精神的なダメージの多寡で外からは見えないとのこと。言語化できないから身体化するというフレーズも、時間的に昔の自分なら分かる。

しんどい、淋しい、諸々の実感が言葉に顕われたとき、それは現実になる。

ただ、今の僕はずれてきて、言語化されたことってほんとうに分かったことなのかという節がある。うごうごして自分を妨げてくる自分は、言語で顕すことより、ただ、貴方は僕の中に在るよなで良かった。

「それから」の代助の精神にも繋がってきそうなのだがここまで。

まだいっぱいあるけれど、今日はここまで。

おやすみなさい。

PAGE TOP