近さ遠さ


人の中に自分の面影を見てわがふりを顧みる。


たぶん寝不足だが、なにか声の調子は良かった。ちょっと解明されたからかもしれない。夜ご飯は置き土産の副菜があったから、メインを作るだけの楽ちん料理。ただ、僕はどうも自分を楽ちんにすることは一緒に居ることの理由にはならないのかもしれない。ありがたいのはたしかで当たり前にもしないが、それだけだったらお金があれば家事サービスとかで代替可能。

役割は代替できても存在は代替できない。

「それから」の代助ではないが、交換価値って交換するために自分を落とすという意味合いもある。織田信長の料理人が一流の料理を振る舞ったら信長はその良さが分からなくて駄目出したところ、料理人は質を落として二流、三流にしたら大いに褒められたというエピソード。

感想文でも高等遊民こんちくしょーみたいなのがあったが、これっておそらく奉仕によって自分の存在意義があるみたいな美徳を皮肉っているだけなような。仕事でしんどいことをやっているという精神によって自分を補強する美徳ってほんまかって。あくせく働くことが浅ましいというニュアンスではないような味。

お仕事。周りにペースを合わせない方がたぶん元気で居られる。そうすると何故か視界が拡がっているのに気付く。同期は空き時間にせっせとお勉強している。勤勉なことだ。僕は覚えようとすることを辞めてしまった。眺めるだけ。新人さんもあざとく案件の後にめも(原文ママ)を残していて、あんまり意味がないことを書いている。どちらも個人的には苦手。新人さんのさらに下の人の方が文章を読む限り要領が良さそう。要点がしっかり書かれている。勤務時間終わったらさっさと帰るのも良き。ちょっと気になるのが最古参の人がお疲れ気味なのが見受けらえること。

ちょっと、明日はバランスブレイカーで全開でやってみるか。

ともあれ。

言い分をイーブンに捉えることは第三者には無理だから、証明としての文書が生まれたのだろうなという感想。僕は基本的に客観性を問題としていないし、あんまり根に持たない。これはちょっと後で。

題材に捉えるのも不謹慎なのだが、見せてもらったラインの長文、なんとなく僕がまどろみの中で言葉を頼りにしていた時の文体と似ている。何も伝わって来ないというか、言葉に逃げているから芯が通らないし、不満は外ではなく内にあって、それを他責にしている。たぶんそうとうしんどい境界に生きているのではないかと想像できる。世界に自分しか居ない感。

紛争解決モデルとしては文書化ないし記録が最も手っ取り早くて確実だし、裁判制度は主張と証拠を照らし合わせて真実をできるだけ追えるようにして第三者が判断するというシステム。ただ、ここまできっちり客観化させるのは面倒だし、主観的な正しさで問題ないし、そこまで残しておけないから、争いのほとんどは感情に帰着する。

感情は文書化できるのかといえば、たしかにできる。ただ、この証拠価値はその当時そういう感情であるということであって、未来まで続くという証左にはならない。裁判だったらそういう激情によって犯罪を犯したという動機の証拠にはなるかもしれないが、感情と行動はほとんど同期していない気がする。

僕が感情を根に持たなくなったのは、感情はうつろうものであって、言葉で同定したところで対義語も含まれているから。もちろん僕は聖人ではないから、他人に対して「頭悪いな」とか、「そんなことをする意味があるのか」とかと同定される感情は抱いている。本日だったらいつもの信号がない道路で、先の信号赤なのに車の誰も通してくれないないのは頭悪くないかとか。電車の中で走って最前列に行くみたいな急ぎ。通りたい自分が怒っている訳ではない。急いで帰りたいのは確かだが、信号にイラつく時期は終わった。僕が運転者の立場だったら譲るし、譲ってくれる人にはどうもありがとうございますと感じる。

もう1つは、新人さんが先生の時間を消費していること。「つかぬことをうかがってもいいですか」って丁寧に聞いている上辺で、自分が納得しないと終わらないから、先生も物分かりが悪いお客さんに対するように言語数を増やしている。その文字量をきちんと理解してまた聞かなくてよくなれる能力があるのかいなって。

よく質問するって意欲的に高評価になるが身になっていなければあんまり意味ないような。
先生お人好しだから付き合っているが、教授になっていたらまずは自分が問いたい要点を洗い出してから質問しようかって言いそう。

脳のリソース界隈の概念かもしれない。必要なことしか覚えないって脳の原理的に無理な気がするのだが、教育ってそういう不合理をインストールする試行なんだよな。だから世界が断片になる。

だって、学習指導要領を作っている人が、その全ての分野を網羅している訳でもないし、高校のカリキュラムだってそう。学者さんだって、その学問の全てを網羅している訳でもない。

この視界は、客観的に正しい物事なぞ皆無というところになるのだが、だからこそ人生劇場は楽しいで良くなる。感情を言葉で規定することなんてできないし、しなくて良い。あくまで表現である、とか。

PTSD界隈だと、自分のトラウマを言語化できる方が快方に向かうらしいから、言葉を物として外化するという方面なのかも。

感情は行動を左右してない気がするのだが、この感覚が共有されることはほとんどないのも分かる。行動のエネルギー源は感情でも意識でも思考でもないよなって。

ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。


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