社会から離れるのが軽さとはどうも違うらしい。真面目くさった顔をして内心遊んでいる感じ。不謹慎極まりないが、真面目という徳はそれの理屈が分からない人達への最低限の網としてインストールされているのでは。真面目であることは手段であって目的とは違う。手段が目的化するのは原理主義だっけ。手段は具体で目的は抽象だから、そりゃあ可視化できる手段を指標とするのが手っ取り早い。
ここでいう手段には結果も当然含まれる。結果は道筋の一部でしかなく、目的が満たされることってほんとはないような。だって、それってもう先は無くて良くならないか。
夢ではエリート法曹になれなかったことにちくっとくる感じだった。法律職が社会のインフラで、食っていけないことはないことはないというポジティブキャンペーンの記事を見たからもしれない。そのうち趣味的にもう一回という気分ではあるが、今の時点では社会のインフラである未来の自分が居たところで、その枠から離れられないという意味では職種が変わっても職域はそんなに変わらないのではという気分。
きっと、受からせないようにする人格領域があった。
全然負け惜しみではないのが不思議な感覚。
職の為ではない無知の塔的な意味で、読み直すのが楽しみですらある。法的思考の本質は融通利くから、道具としては有用だし。合理的かというと微妙ではあるが、人間的ではある。
ちょうどたまたま、信号がない横断歩道で歩行者の通行を妨げるのは道交法違反だという記事があった。歩行者が譲ったから行ったのに、その先に警察官が居てその警察官の現場解釈で罰金になったという話。
この意味での違反って、取り締まりがされていない暗数は半端ないと思う。この規定の目的は、こういう狭い道で車優先にしたら危ないからに尽きる。僕は歩行者の立場として危ないからこそ特に譲られるまで通らないが、自分が運転している車の凶器性について分かってない車の運転者は多数いる。
という国民の意識はともかく、警察官に法解釈の裁量を認めるのはシステム的に無理があると思う。公務執行妨害みたいな明らかに犯罪になる領域は判断が不要だから良いし、信号無視も明らかだから良い。ただ、違反かどうか分からない微妙な領域についての判断ができるような機関ではないから、白でも黒でもない灰色をどうするかについては留保すべきなんだよな。
警察官は刑法とか道交法とかの行政法規は知識として知っていても、法律を解釈することは研修していないはずで、解釈して判断するのは司法機関(裁判所)に委ねられている訳で。もちろん、白の範囲内で動くことはできるが、これは解釈して自発的に動けることではなく、権限内での裁量になる。
もちろん警察官でも逮捕状を請求できるようなエリート層はある程度法解釈まで習得してるだろうけど、ピラミッドの下層に位置するその辺の警官が法律について網羅しているということはきっとない。職位ってそんなもの。これは馬鹿にしているのではなくて、下に行くほど権限が少なくなるから権限外の仕事はしないしできないという構造なだけ。学校の先生だってそうだと思う。ほんとはもっと教えたいことがあったとしても学習指導要領以外のことを教育したら査定に響いてしまう。
法に縛られる公務員が融通利かない仕事をして、この意味で法に縛られていない国民がその仕事振りを駄目出しするってなかなかの地獄絵図。国葬問題は、憲法の構造にかこつけて好き放題している某党という構図だからややニュアンスが違う。
公務員も社会的インフラだ。
人とみなされないことがありがちな職業。いや、自分が仕事していても他人が人とみなされないという世界観はままある。
なんの話だっけ。あぁ仕事か。
本日昨日の予告通り、バランスブレイカー的に働いてみた。
そうしてみたらかなりすっきりする自分。仕事を量的にいっぱいしたら良いという美徳ではなく、査定が高くなることでもない、遊びみたいな領域。できるのにしていない怠けはむしろ疲れてしまう。
人がほんとに疲労するのって、物体的な体ではなく精神領域であるという説。物体的な体を疲れさせる変態も居そうだが、現代の仕事で物理的な疲労が蓄積されるような仕事はアスリートしかないような。精神領域の疲れはきっと縛りに対する疲労。言いたいことも言えないポイズンとか、したいことができないプリズンとか。
したいことができないのは、割と幼稚で、それをしたところの影響範囲が把握されていない気がする。仕事はインフラ的に循環するものであって、革新するのであれば自分がしたいという欲求をプレゼンして上層部に納得させる必要がある。
そんなこんな、まぁまぁ自分を使えたから帰ったあとは小躍りしながら食卓の準備ができた。僕の中に疲れる美徳というものがないらしい。普通に考えて8時間歩き続けるよりしんどい仕事はない。疲れの意味が違う、それはありうる。だとしても、体の疲労と精神の疲弊が連動するって、どういうメカニズムなのか。
過労死は精神の疲弊が肉体を退場させることだとすれば分かる。
どんな友人もその人の精神を慰撫するに届かなかった。父親が家族関係的な疲弊で退場したと解釈しているから、この感覚は近い。僕が父親の友人だったらもっと中の話を聞けたかもしれないし、世界線をずらすこともできたかもしれない。
まぁ、終わったことはしょうがないし、それにかこつけて凹むのは自己満足でしかない。
悼んでいると思いたい自分は申し訳ないが居ない。ただ、父親のことは一生過去のことにはしないだけ。
アンダーグラウンドで、精神疾患気質の人は恐怖を言語化できないところでだいぶPTSDになるという話があった。門外漢だけど、言語化と世界が一致しているというのが当たり前だとこういうことになるのかなって。体験って全部言語化することは不可能で、日々は非言語領域の無意識で生きていて、なにか事件があったときにだけ体験が顕在化するという意識の捉え方。
たしかに、人って他人の言葉を聞いてないから、訴えたところで当人の世界観の中で捉えられて、貴方が言っていることオカシイよねって世界が隔絶される。
インターネット世界の記事で他人を加味している記事がほとんどないのは仕様だと思うが、そこで生きて、なにか暖が取れているのかというのは気になるところ。
辛辣だが、個人的には存在の暖を取る為に書く人とは離れると思う。
なにせ、僕は表現という位相で書いていて、承認という位相ではないから、変な話、自分の存在の確証をインターネット世界に求めている人とは合わない。
存在は匿名的に書けたとしても、きっと物理的に漏れている。言葉なり文章なり表現は、逃げ道にはならない。
使えるものは使うべきという意味では、自己の文章を収益化するのもあり。
はい、おやすみなさい。
良い夢を。