遊び人


その限界をぶっ壊せ(演出)。

遊び惚けたのに何故か収支がプラスの1日。
残ったあぶく銭は明日無知の塔の入れ替えに使おう。

朝ごはんは椎茸とミニトマトのうどん。この2つってどこか似ている食材。旨味なのかな。昼はラーメンの気分だったが、なんとなくコンビニの銀鮭弁当が美味しそうだったため、そちらを選ぶ。ラーメンは明日の朝。スーパーで袋麺を1つだけ買ってきた。

昼ご飯を食べてなにやら遊びに行きたくなってくる。バッティングセンター、ダーツ、散歩(これも遊び)、諸々ある中、運試しをしたい気分。この前行ったとこは女性店員さんがなんか煽情的なんだよなと思いつつ、当たって帰るとき勝手にお菓子を選んでくれるしあまり声を出したり選ばなくても良いという便利さに天秤が振れた。誰も座って居ないレーンにこの前隣で見ていて面白そうだった台があって、こりゃあ気楽に打てて良い。全然知識ないからそういう決め方。

もうおやつ時間くらいなのに、僕が最初のお客。1/319の確率なはずなのに、すぐ当たる。ビギナーズラックというやつである。そこから2,3回続く。冒頭の「限界をぶっ壊せ―」という演出も入る。ここで止めて既にプラスだったのだが、あまりに早い。

僕は稼ぎに来たのではなく遊びに来たのである。もう一回くるだろうとしていたら単発で、玉がどんどん減っていく。この辺りでもろもろの感情が巡る。これって、ギャンブル特有のもうちょっとしたら当たるという思い込みなのか、いや、でも遊びに来ているのだから、この玉使い切っても400円しか使ってないし、という葛藤。感情が一意なのは結果から逆算したところでしかない。

そんなこんな、レールガンリーチで当たり、限界をぶっ壊して最初に続いたときよりも多くなって終了。ひと通り当たりも見たから遊び尽くしたと言える。やり込み要素は基本しない。

あぶく銭で1人カラオケに行く算段。後付けだがもともとそういう予定だったという。
久々に行ったチェーン店は受付もパネル形式で楽々だった。楽々過ぎて時間設定がどこにあるか分からず、ほんとは1時間半のつもりだったのに、30分になってしまった。初回はポンコツなのは知っている。決まったものは仕方がない。何曲か歌っては消して、それでも楽しかった。

ミックスナッツは難しく耳で聞いていただけだから上手くいかなかった。歌の時の声の出し方もポンコツで、喉の変なところに振動があってせき込んでしまう。中途半端にしているからだとして、全力でやってみたら調子が良くなってくる。ミスチルのワールズエンドが昔唄えなかったのに、まぁまぁ唄えるようになっていて楽しい。若干欲求不満で退出。270円也。

まぁ、これでヒトカラ場は確保できたからまた行こう。
自分の声を試行できる。

ぼっち遊びを満喫して想ったのだが、自分には何か「あまり遊び惚けてはいけない」という規範があったみたい。個人的な遊びの概念がズレているから自己防衛のための恭順なのか、「逃げ」、あるいは「息抜き」みたいな意味での遊びは僕はやってないし、できない。日常で小躍りパートがあるのだから然るべく。

運試しも、稼ぎ場ではなく、無駄に時間を使うという遊び場。
ここで無駄とはなんぞやとなってくる。ふと思うのは、人生劇場のほとんどの時間は無駄だよなと。例えば、必要を「生命の保持」と定義付けたとき、本当に個体にとって必要なのは睡眠時間と最低限の水とカロリーくらいであって、衣食住は過剰の観念。「文化的な人間的命の保持」になってくると本来は無駄な物がどっと必要になってくる。

なんにせよ僕は無駄が大好物だから問題ない。文化的な人間になる為の無駄な必要も悪くない。

知識も散歩道みたいなもの。

お風呂読書をしていて出てきたフレーズがこれ。読書によって新しい視点を得るというのは良くある。電車の車窓から眺める景色みたいなイメージ。従来の自分では見えてなかったなという景色の発見。精神的な身体は動かない。もちろん、これで十分でも良い。見ることだって経験の一部なのだから視界が拡がる。

ただ、見えた景色のストックって写真みたいなもので、それを見たことを覚えているかどうかが全てになる。ついでに、その世界においてその事象に当人が固有に関われない。コピペ文化の土壌は視覚優位の精神界なのか。見たものが自分のアイデンティティを形成するみたいな。

精神界において体が存在しているのかという命題。
証明不可能だけど、こういうことを考えるのが哲学であって哲学は一番人の素朴と近そう。

基本的には、精神的な自己は自己をまなざす視覚として設定されているような気がする。だから、自己のことを視覚的に言語化する。感情も景色みたいに語られる。内観というまなざし。

こういう意味で精神界に目があるとすれば、当然体もあるし手足もあるはず。精神界に存在する意識は自己の物体としての体をベースにして生まれているはずだし。意識は物体としての体と繋がっている幽霊みたいなイメージもできる。

僕は精神界でも運動しているというイメージだから、視界が拡がるだけでは刷新された気にならない。新規の知識みたいな概念も景色として眺めるのではなく、そこに散歩したくなる。これが思索。

でも、昨日の日記みたいな法律学的な思索は院時代には起こらなかった。精神界が天動説のままだから、見ている自分が変わらない=知識も不変であるとなる。きっとここがずっとしんどかったのだろうなという発見。やっと地動説から相対性理論まで追いついてきた精神界。

本が静的に読めるものだというのはおかしな話。
僕の文章をわざわざ読みに来ている人はきっと精神界で一緒に散歩できる人だろうし。

思索界隈で、やっと高校数学がやっていることの考え方がちょっと読めてきた。歴史学は微妙。美学はまぁまぁ。共通感覚論も終わって、なかなかの生え変わりの時期。自分が思っているよりもっと読めるのかもしれない。あぶく銭で追加。

自己評価低すぎ問題は、結局のところ誰かのまなざしで見られた自分を自己と設定していたからだろうな。僕の精神界はお散歩道中だから、特に誰かに自分の精神を承認される必要がない。

ここの齟齬が埋まることってあるのかな。
ありそうでもある。

はい、おやすみなさい。

いっぱい寝れますように。

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