時と距離

22:25から。

結局連休中の2日間、日記が書けなかった。

別に良いっちゃ良いのだが、他にエネルギーを使い過ぎて自分に回せないということなのだろうなという解釈。

1日目も2日目もよく食べた。満腹は自己実現にとって毒だと思われる。

何も考えられないし、やたらと眠い。動物的生活だったら常に満腹でやんわり眠気がある生活が良いと思うし、ここは否定しない。僕が嫌なだけだから、他人に満腹が毒だから胃を空っぽにする時間を創った良いよと主張することは無い。

強いられたくは無いし、強いるつもりも無い。

あと、人が常に傍に居る環境もエネルギーが消費される。

最近は気を遣っていないと評されることが多いのだが、観測する人が居る時の自分と、観測するのが自分だけしか居ないときの自分はそりゃあ異なるに違いない。

観測する人がいない方が怠惰でないし、考えている。

観測されると、観測する側のことも考えてしまうという余剰のエネルギー。

ここの下りは、独りで居たいなーっていうことではなくて、こういう性質の自分が良く実家時代生きられたなということ。いっぱい食べ物があるから食べるし、いっぱい人も居る。そりゃあ常に眠気に苛まれているに違いなかった。

安心の眠気では無く、他にエネルギーを遣ってしまっているから充電したいという眠気。

以前は、実家に帰った時、箱に入っている気分という解釈をしていた。

独りのときの活発な精神運動(思考)をしている自分では居ないということをそう評したのだが、なんのことは無い、エネルギーが他に回っているだけだと思う。

そんなことあるのかと思われそうだが、実感として在るのだからしょうがないし、別に誰かに共感して欲しいとも思わない。

さておき。

この前置きは、別にこの3連休がつまらなかったという意味ではない。

母親と満月さんが、まぁまぁ相性が良さそうとか。

満月さんが大人の対応で合わせているという節もあるのだが、特にお互いから否定的な言葉は無かった。ちょっと性質も似ている気がする。理由とか正解を求める感じとか。

満月家との会食でも盛大に弄られた僕のアルコール生活。

もっと減らしなさいって。

心配しているのも分かるのだが、心配は人の行動を制限する理由にはならないと思っている。この下りは場において主張するものでもないし、発話に適さないから特に語らなかった。

あくまで個人的な体感の話。

健康かどうかって統計的な証拠しかないから、統計的に健康的なことを続けたところで不健康になることもあり、そんなに根拠にならないと思っている。

そんなことより、罪悪感・現実逃避とセットで摂取することが害だと思っている。

食べ物とか移動とか、あらゆる行動に網羅的に当てはまる。

自分の中で、やった方が良くないというニュアンスがある行動は迷うくらいならやらない方が良い。こういうのが、合法的だけど推奨されない嗜好品にセットになるのが通常だが、僕は、連動させていないから大丈夫という認識。

一応、医学的な診断も毎年受けているし、今のところ異常は無い。

お母様は、医学的な診断が正しいとは限らないと言っていたが、それを論拠にするのであれば、統計的に体に悪いアルコール量が僕にとって体に悪いとも限らないとなる。

もちろんこんなの屁理屈で、母親とお母様の言い分の本質は、自分達が心配するような行動を慎んで欲しいだから、現象として心配させている以上、どれだけ言葉を尽くしても無駄だと思っちゃう。言葉を紡げば紡ぐほど、僕がアルコールの量を減らさない為の言い訳をしていると読まれるだけだし、納得されたところで心配は拭えない。

あとは、僕がその心配を掬って行動を変えるかどうかの問題。

情にも弱いから、眼の前では控えようかなとは思うくらい。たぶんそれで心配の何割かは拭えてしまう。

いや、全然ディスってはいないのだが、これを発話でやったら言い方が悪いって絶対言われる。言い方のほとんどはほんとに言い方な訳では無くて、読み手の感覚。

ともあれ。

実家周りはなかなかちょうど良いタイミングだった。

なにせ、道中がカラフル。

しだれ桜がどこも満開で、あと、1つの木で赤、白、ピンクのグラデーションがある花が綺麗。母親は僕よりも博識だし、僕と同じくらい花を愛でる人だった。昔の子育て中はそんな余白が無かったのだろうな。遺伝を感じる。

僕も余白ができたからか、母親の発言を素直に学習できる節もある。

イマドキの田んぼはレンゲ草を植えることが少ない、なぬ、だとすれば大阪時代のピンクの絨毯は希少だったのかって。

母親の発言を素直に受け取れない部分も未だにある。

父親のところ。父親が退場する辺りのところで、鬱っぽかったしアルコール依存症ちっくだったみたいな話があったのだが、そこにヒステリーだった自分を登場させないのがオカシイと思っている。

どれだけ父親を攻撃していたか覚えてないのだろうか。

いや、人生劇場って客観情報より主観で歪めた記録しか残っていないのも分かる。

僕も、客観では父親が倒れてから一日後に退場した情報は昨日墓参りして初めて知った。体感では数日後だったという記憶。

なんにせよ、僕は父親の退場に対しては阻止できたかもしれないという罪悪感とセットなもんで、勝手にアル中になって助ける暇なく退場していった人とは解釈できない。

やれやれ。

飛行機の車窓から下界を眺めている時に出て来た思索。

時間と距離って同じこと。

飛行の標高が上がっていくと世界が模型みたいに見える。新幹線と比べるべくもない速度で動いているのに、他に比べる対象が無いから止まっているように感じる。

距離が隔たれることって、時間がいまになるまでラグがあるから、現実味が薄い。

その薄味を大事にしていたのが、文通とか返歌とかのラグを前提とした交流。現実的な生活圏には居なくても現実感がある存在。

いまのネット世界は、距離が隔たれても時間がリアルタイムだから、こちらの方に現実味を感じる人の気持ちも分かる。物理的な現実より現実感の方がリアルというお話。

あれ、同じことなのか。

僕は、こういう意味の時空を越えた交流の方が現実味を感じる。

話が分かる人は今生きている人とは限らない。せっかく物理現象に条件反射するだけの脳から離れられたのだから、交流は現在に限らなくて良い。過去でも未來でも。

どうでも良い内輪の話で収めるか。

満月さんは、よく「どれくらい私のこと好きか」と問う。

僕はそれに対して、答える言葉が無い。だって、比べる対象が無いから。満月さんはもしかしたら歴代の元恋人さんと比較対象にしているのかもしれない。別にそれは良いのだが、比較されて勝てる気もしない。

ふと、満月さんが、「来年も夜桜見ましょうね」と。

「少なくともあと30回はある」と返す。若干嬉しそうにしていたけども、愛の表現ってこいうことなのではと思う。

僕が嬉しくなるのはこういう表現だなということを投げた。

会話だと、基本的にキャッチボールで、枠の中で投げたり投げ返したりだけだもんで、これで疎通がまかり通っているとは思っていない。

知らんけど~

寝るけど~

おやすみさない。

良い夢を。

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