素朴な世界


無限の偶然から選択された必然を泳ぐ。
人の意識の視界はまさに神様のそれ。結局は偶然であることに理由を付けようとすることは人のそれ。でも、必然と捉えた方が断然に楽しい。

さて。

割と書けることが書けるようになってきたような感じ。
需要は知らなくて良かった。需要を気にすると、供給が需要の枠内になる。これがきっと無意識下の言葉の貨幣性。いや、交換できる物があるってなかなか良いこと。

お仕事は、なんというか、かんというか。
こなすという意識ではなく、できることをするという意識の方が良いのだが、考慮点が色々見えてくると厄介になってくる。長くなっても情はわかない。情ってなんだろう。誰に対する情かというと、きっと具体的な当人というより、その場に存在する自分に対してだと思われる。

偶然、必然、物、ものの世界線で考えたとき、人に情(愛着)が生じるのは、人を物と捉える振る舞いであってなんだか失礼な気がする。分かりやすいのは相手に対して役割の振る舞いを欲することで、劇場になぞらえるならこういうのは人をキャラクターにする行為。脚本化。おそらくこういう世界観だと自分もキャラクターとしてしか登場しない。

たしかに人は舞台装置的に人の世界線をずらすことがある。これは1人のまなざしで見ればたしかに、物(財産)的経験値になるが、もう少し大局的に視界を離せば、人と人の世界線が交錯しているということ。この捉え方だと人との関係は物にはならない。よって、人は物ではない。

ものを哲学する本でも、ものの実在は時間にも空間にも留まっていない。
ある意味SF的な世界だが、物理学でも世界を穿っていけばSF感だし、文学でも人は生身を越えるし、素朴に子を産んで育てることも個人の存在から時空が拡張される。

ものは消費されない。

僕は物的に何かを欲することがあんまりできない質。本の虫だが、本を所有物とすることは全く問題としてなくて、そこに書かれているものが大事。人に対しても、同じ時間と空間に在ることが大事というよりそうあろうとするもの的な感覚が大事。同じ物理的な時空に留まっていたとしても存在は容易く世界線を離れてしまう。

物を新しく交換するということにも頓着がないから、化石のようなエアコンで涼を取っている。自己観測的にズボラな訳ではない。ズボラな奴が毎日文章書いたりお弁当作ったりできるはずがないし。あくまで方向性なのだろうなという解釈。

どうでも良いが、本日は大根おろしを食べたくなって、季節外れのお高い半分の大根を買って、豚肉とミニトマトと豆苗でみぞれ炒め煮した。夏に食べるみぞれも美味い。という感じで自分を統御もしていない。

ふと、僕の顔面がしっかりした眉毛がある美形(恋は盲目という説)なのに、顔付きにそんなに存在感がないと言われた本日。顔付きもともあれ、僕は自分の存在感の希薄さをずっと感じてきていた。認知はされるし蔑ろにされる訳でもないのだが、なにか薄い。醤油的。酔った時にお喋りするとやっと固有となるみたいな感じ。

そこそこ色んな場で色んな人と交錯したし、居心地が良い悪いもあったが、僕はだいたいの場で馴染めた。馴染めなかったのは、僕をやたらと規定したり推し量ったりして、窮窮させられる場。ここの最上級は最初の私的な空間である家族としての場だったり。

職場でもそういうところはあった。

で、人の存在感ってなんだろうと想うと、きっと、自己として既定している、意識として統御された自己像を外にアピールできるかどうか。自分の中で譲れないから他人にも譲れなくて、その摩擦が自己から見た自己と、鏡としての他人の存在感になる。僕は外に譲れない自己を規定しないように設定しているから、当たり障りなく見える。たぶん、僕の文章読んだところで僕の人格は捉えられないのでは。だいぶ読んでいる人が減ってきて、淘汰されてきて良き。

僕の文章なんて読むよりもっと有用に交換できる文を読めば良い。
読んでいる人(物)が増えれば良い気分になれる界隈。辛辣というより、ただの感想。ルーティンとして流れてくる情報みたいな存在ではありたくなかった。

灼熱のお弁当タイムで、言葉に魂を込めるとかふと想った。
良いことを書くのではなく、もっと表現的に。

今日の帰り道の夕焼け、こんなに美しい必然なんてあるのかと見える。
毎日こんなに綺麗な夕焼けがあれという欲求はない。これがカント美学でいうところの快不快ではない適意かいなと。綺麗な物を見たいではなく、綺麗なものがあるという感覚器。

感性が経年によって鈍るって絶対嘘だ。
感性は理性とは別のところにあるし、美しさの舞台裏が知識と把握されたとしても景色の美しさは変わらない。

統御しなくて良くなくなってきて、より社会的に無意味な光景に美を感じて良いとなってきた。
快不快の世界で生きなくて良い。

もう1つ。これはかなり個別的な関係論。

僕が好きになる人は、僕の空間に留めたいっていうより、この人、もっと自由になったら面白いという文脈が強い。都合が良いように誘導することはたぶんやろうとすればできるけど、それじゃつまらないし、人を物扱いにはできないし。

僕は相手を規定しなくて可能性で捉えるから、これはやるだろう、これはやりそうもないという感じで人を見ていない。あんまりそう見えないというクレームはありそうだが、それは鏡である。

縁側でだらけるのか、そこで補給したことで何かをするのかは僕の感知の外の領域。
僕は結構人をだらけさせ気味。

僕も、本の領域が舗装道路ではなくなって森で迷うくらいになっている。
自分が培った経験則としての正しさが通用しない。マルクスさん、読んでみたら普通に良いこと考えているような。地主と労働者の関係では労働者が完全に損をするということを考察している。これがどう文学と繋がっているのかは不明だが、文学は社会の澱みたいな表現なのか。

まだまだ人生劇場を楽しめそうでうきうき。
前後不覚好物。

はい、おしまい。

おやすみなさい。

良い夢を。



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