ろんりのりんり


もうどれだけ前もって体を冷やしても15分歩けば社会人にあるまじき汗だく。夏のマスクはむしろ口腔から水分が取られている気がする。どんな理屈かは分からないが、鼻の中の固形物具合で。なにか衛生上良くないような感じ。


かつてピンクの絨毯だった田んぼは今や緑もうもう。ただ、ひび割れるにはまだ早くないか。この前行った花の文化園の近くの田んぼは健全にまだ水が張っていた。ピンクのきりたんぽみたいなのは、オオタニシの卵(検索しない方が良い)だった。帰りにコンビニで水と除菌ウェットティシューの詰め替えを買うために田んぼルートで帰ったのだが、若干水が入っていた(まだひび割れている)。

あと、夏休みの夜の音。実家の傍にも田んぼがあって、げろげろというかぐるぐる鳴く音が響く。このひび割れた田んぼで生き残れるのかはちょっと心配。カエルが好きかと言われると微妙だが。アマガエルは可愛らしい、ガマガエルはごつい。個人的には尻尾が青緑のトカゲが好きかも。


さて。仕事という名の準備運動。まだ火曜なのがちょっと嬉しい。だって、まだ平日周りが3日もある。3回、お風呂読書時間があるし、その回数日記を書けるし。切り替えがうまく行っていないといえばそう感じがなくもなかった。何か退場したい気分が沸いてくる。別にしんどいからとか合わない人が居るからではなく、素朴に。僕の頭がもっとも回転しているのはきっとお風呂時間だし、ふつーに考えると、仕事の失敗より、私生活の失敗の方が世界線を移動させるような。社会生活じゃないから問題みたいな風潮だが、内的生活の恙なさの方が社会的成功より大事なようなという異説。

そういえば、先生との共時性。覚えようとしなくて良いって言っていた。なんでもかんでも記憶しようとするから、思考のスペースが少なくなるのだというニュアンス。まったく同感である。それでも先生がぱっと出せる記憶領域っぽい情報は半端ないのだが、覚えようとして記録したというより、思考のための道具として動かしたからという感じ。運動領域なんだろうな、たぶん。

月初めは繁忙期なのだが、全然忙しくなかった。空き時間に、ふと「今日は何が食べたいか」を自問することにする。なんでも食べられるし何作ってもだいたい美味しく収まるからやっかい。選択肢が多すぎて意志が収束しない。これは不便ではないのだが、なんかもっとほんとに食べたいものないのかと自分に詰めてみたところ、「おでん」という回答があった。

よっしゃ、だったら最高に美味しいの作ろう。と、帰り道に下ごしらえなど調べつつ、スーパーでお買い物。牛すじ肉はこの夜ご飯時間で処理し切れないから断念し、手羽元にする。あと白滝とだし昆布とちくわ。大根はある。

汗だくで家に着いて、洗濯機を回しながら、まずは明日のご飯をとぐついでにとぎ汁を採取し、大根をした茹でしながらアプリゲームをしつつ、洗い物などをする。手羽元の下茹でと、ゆで卵を作るので1つしかないコンロは渋滞している。合間に茹で卵の副菜枠の補充に買ったアスパラを根元と毛先で二段階でレンチンし、オリーブオイルブレンドの浅漬けを作りつつ。

鍋が空いていないからだし昆布の浸水はボールに水を入れて時間をかけ、鰹節で出汁を取る工程は省略してほんだし。醤油、みりんをてきとーに混入し、あとは極弱火でことこと。その間にアイロンがけやらお風呂やら書けないことやら。

で、完成。うますぎる。
なんやこれ、冷まして沁みさせる時間なかったのに、そのまま食べても充分、和辛子をつけると過剰な美味しさ。時間をかけるって大事。

何の話やって感じの食レポだが、僕は何でも良い(不満はない)うちのもっとも欲するものを決めるという運動を培うべきだと言う話。それだけに傾注するような感じではなく、なんでも良さの中でも重みが違うよねという自己カウンセリング。

そうすることでもっと楽しく美味しい人生劇場になりそうな。

今日のおでん、誰が食べても美味しいくらいの出来栄え。
いや、シェフワングランプリに出せる程の魂は込めてないが。笑
というか、込められるくらいの修練がそもそもない。

表現に魂を込められるようになる為には、想いの前に運動が前提。運動があるからこそ、想いと表現が一致する。

やれやれ。

なんで「おでん」が出てきたのかというのを内省すると、もしかしたら某クライマックスを迎えそうな漫画の影響かもしれない。まぁこの影響によって美味しいおでんが食べられたから良い。

本の話。

影響というより共時性の話の「それから」の代助氏。何かをするときに、他の目的からしているとするのは邪道だとしている。歩くときには歩く、思考するときには思考する。他の為にそれをするのはなにか変。余裕があるからそういう思想が生まれたという説もあるが、僕は余裕がないときもそんなことを想っていた。

わりとツンデレ属性があるのも近い。笑
僕はツンデレ属性に理屈をつけることはないのだが、相手の世界の中のキャラクターに成り下がるのは嫌だなという感じはある。

キャラクターでない人格とはなんぞやというと、安心とは別の予想外だと思われる。
それを許容できることが関係の前提にあるべきところ。個別的関係において社会的一般論を持ちだすのは無粋だし。

日本人は理屈が好きなのかというと、そんなことはない。
論理学習わないし、日本語がそもそも意味が揺らいでいる言葉だから、論理を積み重ねて答えに辿りつくみたいな民族性ではない。

ただ、納得できるという枕詞を付ければ、八百万信仰の性質だからあとの言葉はなんとでもなる。神様でも良いし、社会がとか世界がでも良い。世界の捉え方は受け身なのに、相手に対しては能動になれるのはなにかの威を借りているのだろうか。

このご時世のとき、僕は打つことに対して全く必要性を感じなかったのだが、母親は皆打っているのに打たないと(仲間外れになる)みたいな説得の仕方だった。まったく理屈になっていないと思うのだが、当人にとっては論理になっている。こんなの感情論。

僕としては外れの退場に当たることの方が危険だと思っていた。当初から。
感情論のうつろいも劇場としては大事だが、これは誰かに同じことをさせる客観的な理屈ではない。

そもそも理屈が設定によって逆になりうるということが知られていない。
その前提が覆れば逆の結論になるというのが、論理の脆弱性。ヴィトゲンシュタインさんくらいの論理構築があるのであれば例外だが。

本の森については語れなかったがここまで。
基本的には明日もここに居ます。

おやすみなさい。

良い夢を。

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