何を気にするか

22:34から。

他人のことを信用できない人は自分のことを信用していない人。

雨が降っていたもんでバス通勤。

おそらく乗って来るだろうなと思っていたら案の定の事務先生。

事務先生とぽんこつはもしからしたら同じ軸なのかもしれない。ついでに弟勇者も。

ふと、なんでもないコーヒーの雑談。

事務先生が兼任している別の店舗の人がコーヒーメーカーを持って来ているのだが、定期的に掃除しないといけないものなのに、誰も掃除していないだろうから、私はインスタントコーヒーを持参している、とのこと。ここはどうでも良い。

この流れで出てきた「私は誰も信用していないから」というフレーズが本質だなと。

「家族は他人である」とも似ている。

人の言葉って、割と当人の世界観の鏡というか、蛇口から漏れているというか、どれだけ外面を保とうとしても内部が漏れている。あんまり綺麗過ぎる言葉しか発信しない人は、何か抑圧している感じがする。たぶん本当ではないのだろうなとか。

「誰も信用しない」とか「家族が他人」であるというのは、僕も分かるのだが、別に誰かに直に発信するところではないとは思う。聞き手のことを考えていないというか。

事務先生で言えば、笑いごとのように聞いている僕もその「誰も」に含まれるし、弟勇者の「家族」になっちゃっているし。じゃあ僕は発話者にとって誰よ、王様の耳はロバの「穴」かとなる。

僕は特に何もなくただ聞いているから、当人の自己開示だとすると、言葉が裏返る。

事務先生は自分のことも信用していない、弟勇者は自分のことも他人のような存在と認識している、という解釈ができそうだなと。

「信用」の概念も、「他人」の概念も、同じことの裏表だと思われる。

裏切られるかどうかを問題にする、視点の側面の違い。もうちょっというと、「世界が思い通りにいかない理由」みたいな話だと思索。

僕だって別に、人を信用していない。でも、それとは別に人と関わるのは面白いよなって思う。信用って「期待」とニアリーイコールで、期待を裏切ってくる人の方がより人だと認識できるもんで、他人を認識することにおいて、「信用」を軸としていない。だから、日常用語でも脳内会議でも、信用という単語は出てこない。

なんなら、僕は今の認識できる自分を信用していないから、もっともっと裏切ってくれて良いと人生劇場の物語を読んでいる。もっと自己認識に信用されない自分で動いた方が楽しい。だから、他者も信用できないし、むしろ信用に留まって欲しくない。

で、「家族が他人」というのも僕の中の概念としてある。

ただ、ネガティブな意味では全くない。家族だから甘えて、自分の欠如を埋めて貰うみたいな信用では無く、普通に他人としての礼儀を弁えましょうという意味合い。もちろん完全な他人ではないというか、場ではないから、全くの他人と接しているのとは状況が違うのだが、それでも他人は他人として尊重するし、分担できるのが他人としての家族。

弟勇者がマズイのは、家族は他人と言いつつ、結局家族に甘えちゃっているところ。

信用していないとか、どの口が宣う、と言われても仕方ない。これは他者を他者として切り分ける認識が弱いだけで、自分の遡りが足りない。

たぶん、自分のことが嫌いなのだろうなと。

この自分嫌いは、だいたいの日本人(世界人もかも)に備わっている性質だと勝手に思っているのだが、だからと言って、察してちゃんになるのもちょっと違う。

自分嫌いだから、誰かの言葉に攻撃されたと思い込んじゃう。

僕は満月さんに日々、「意味分からん、ちゃんと会話して」と言われるのだが、全然堪えない。満月さんがほんとうに発話で疎通したい人なのかは未だ未知。僕は察するちゃんだもんで、ほんとにそれが必要だったら、僕が選ばれているはずがないと解釈できる。会話は嗜好品なのかもしれない。

僕も別に、趣味が通じるとか相性が良いとか、話が合うとかは求めていない。

深い話ができたら良いなと思わなくもないけども、そんな人との出逢いは、嗜好品。別にそれで自分軸が動くのは楽しいけど、相手はあくまできっと自分軸の話をする。僕と話してっ世界観が一緒に動いた人、今までの人生劇場で皆無かも。

ただ、そんな人が居るとすれば、一緒の場に留まって関係し続ける意味は無いから現実生活で一緒に過ごせる人でも無い。僕もそのうちまた逢えれば良いとなるに違いない。

人生劇場における存在感ってそういうものでは。

知らんけど。

さて。

明日休みだけど忙しいもんで、ここまで。

早上がり。

おやすみなさい。

良い夢を。

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