22:52から。
これから書ける気がしない。
あー、家族法の7700円の本が欲しい。ネットで買っても良いのだがちょっと立ち読みしてから選びたい。
なんだっけ。
お仕事。
事務先生は有能なのだが、世界観がちょっと合わない気がしてきた。
いや、こちらが主流で当たり前だけど。
私はこれだけやっている、だから貴方はこれだけやるべきという価値観。
常識的だと思うし、ちゃんと自分ですることはするというのは良いと思う。
ただ、これって、世界と自分を連動、ないし、依存させる捉え方だよなと。
これが劇場であるという考え方って、その目に見えない恩恵が死角になりそう。
ぽんこつについて話していて齟齬に気付いた。
事務先生が嫌なのは、自分がやるような仕事振りをある程度でもやっていないぽんこつの存在が目に付く。僕は自分がやっているのにぽんこつがやっていないのはどうでも良い。この世界だと、ぽんこつからすると僕の方がむしろ仕事できない人と観られてそう。これもどうでも良い。
僕が世界(職場)として気にしているのは、ぽんこつがぽんこつの職位として仕事できているかどうかに尽きる。もし職位を全うしてくれて僕にとばっちりがきたとしても、それで僕は怒らない。全力でやってくれた人に失敗に怒るなんて、凝り固まっている。その職位を全うできないいないことが嫌だけで、特に腹が立つことも無くなってしまった。
事務先生はどちらかというと、どういう経緯があるにせよ自分が煩わされると感情を出しちゃう人。もちろんオトナだからぱっと見はないのだが、僕の眼だと同じように話しているけれど、距離が随分離れたなって。おそらくもう一切準プライベートの食事会は開催されないだろうな、という感じ。
こういうのを、刑法でいうと、結果無価値論と呼ぶ。過程がどうであれ、結果が駄目だったら駄目でしょうって。今の主流は行為無価値論。結果というよりも行為が悪いよねって。あんまり細かく気は無いが、刑法は常識の権化みたいなルールだから、何が悪いか問題の表現ではある。
ここでいう行為は、動機というよりは認識の話。
その行為をしたということは、こういう認識がありましたよねという問われ方が主流。
心理学的に言えば、人の行為ってほとんど無意識に占められていて、あえて自分の行動がどういうメカニズムなのかって言語化するのは難しいもんで、結局は目的とか動機とか理由の言葉になる。
僕は自分がしているときにいちいち理由も動機も気にしていない。
それを聞かれても、全然答えられない。いちいち言語的な動機で行動していないというか。
色々、現実がわちゃわちゃしているので時間切れ。
まぁ、こういうのが人生。
自分の存在は自分で確保するしかない。
しんどいからしなくて良いなんて、余裕がある人にしか通じない。
最近短くてすみません。
おやすみなさい。
良い夢を。