本日の帰りはややきちんとした雨。雷鳴もゴロゴロ。気になって田んぼを通ると雨に合わせたのか水が補充されていた。カエルも元気にゲコゲコ鳴いていて、安泰で嬉しい気分。
雷が鳴っているくらい分厚い雲なのにスカスカで、夕焼けのピンクが地面を塗っている。不思議な色合い。美はどこにでもあって切り取る目があれば味わい放題。明暗が微妙だと瞳孔の動向が錯綜する。
地下鉄サリン事件の当事者のインタビューで今のところほぼ共通しているのが、視界が暗いというところ。これを読んで世界の明暗って動向の収縮によるよなとなった。勝手に調整されるところだから無意識で世界の明暗は一定だという意識なっているが、ずっと意識し続けると同じ明かりでも明るさが違うことが良くある。しばらく目を瞑って開いたら調整にラグがあるとか。
こういうのって、当たり前のメカニズムとして起こっているのに意識はされない。意識される世界の外にも世界があるという説はこういうこと。僕の瞳孔がはちゃめちゃになったのは水分補給なしの中学校の部活時に貧血みたいになって倒れたときと、体調不良なのに飲み続けて歩いたときくらい。貧血状態の視界って、ぼやぼやが拡がって何も見えなくなる。座ってぼやぼや去るのを待つしかない。
血量が欠乏しているということでもない気がする。健康診断で採血してもなんともなかったし。やったことなくてやってみたいことの1つに献血があるのだが、大丈夫そう。AB型は不足しているみたいだし。懸念としては、血中にアルコールが常在していないかというところ。基本的には夜しか飲まないし、昼休憩に飲みたくなるなんてこともないのだが、まぁやってみて拒否されたしゃーない精神で行くか。
そういえば、今書いていて思ったのだが、「気分」という言葉って何か不定義で良き。混在している気から、なんとなく取り分けられる感じ。「気持ち」より随分軽い。気なんてそもそも持ちようがないものなのに、所有している気分になるのはなんとも。でもそういう感じが在るからこの言葉も生まれているのだよな。言葉の不可思議。
仕事では、業務上特に意味がないところを問い合わされ、なかなかしんどい気分。明日に繰り越している。なんでそれを知りたいかの意味が分からないことを調べる徒労感よ。ここにかからなければ解決できる案件がいくつあるのか。それが分かったところで業務が効率化される訳でも適正化される訳でもない。気になるなら自分で日々検証してみれば良いのにという気分。
業務上意味があることなら問題ないのだが、何の為に仕事しているのか分からない問い合わせはしんどい。ある程度は精神のケアも業務だからそこも問題ない。納得したいだけというのが困る。
先生に一応相談してみたが、気にするべきはそこではないという同意見だった。過程より結果的にどうかだろうって。仕事はそう。過程が評価されないのは当たり前のこと。内部で充実感を求めても良いかもしれないが、外から見えるのは成果だけ。どれだけ言葉で繕ったところで成果は客観的に把握される。
でも、プライベートは違う。
違わないのであれば、内部領域まで資本主義に毒されてないか。人生劇場って生きている限り過程でしかないのに。ん、常識ではそうではないのか? 結果を積み重ねて人生が構築されるという一方通行的な世界観は、キリスト教由来の時間の観念。
ここで「それから」の話。
代助と友人の交流で、友人が色々送ってくれるのにお返しで、本を送るということをしている。最初のうちは、さらにお返しで感想文を返す。でも、そのうち、感想文が返ってこなくなる。代助が事情を伺うと、感想は読んだあとに書こうと思っているが、全然読めてない、これは時間が無いのではなくて、読む気がしない、もっと言えば、読んでも読める気がしないからとのこと。
確かに本が読めなくなったという話は良く聞く。僕は経年する毎に読める本が増えていくのだが例外としても分かる。
僕は人格の過渡期に本で形成するほど本は読んでなかった。むしろ環境を読む感じ。あくまで読み物だから、自分の存在とは別にできていたらしい。なんでできているかは不明。僕の常識を構築する環境の中で、この年齢まで1回も結婚していない人って居ないんだよな。
まぁこれは法学畑で婚姻制度が、個人的な関係の終着点ではないのが読めたからという気もする。
ともあれ、本が読めないという感覚は分かりみ。
自分の世界の外に在る言葉に影響を受けたくない人格が確立されている。本が読めない人が文字を読めない訳ではないし、新聞とかテレビのテロップは普通に読み続けている訳で。要は自分が見える言葉しかなくっても不都合がなくなってくるから、自分の世界で言葉を解釈しても生存に影響がなくて、あえて、自分が見知らぬ世界を読んで開拓する動機がない。
動機をもって読む読書は邪道と想うが人のことは分からないし、そういう風に読めと言われない限り問題ない。
僕はそういう人格の言葉しての固定化が嫌だから、楽しさで本がいっぱい読めるようになった。本を読むときに、なんで自分の人格を参照しないといけないのかが分からない。自分の経験知と照らし合わせて読んで何が楽しいのか。
自分にとって都合の良い世界しか見ないようにするのは、割と外向的な人格だし、これはこれで良いし、どうでも良い。
それより、「楽しさ」という気分って、最初に自分という人格を創る衝動に近いのだろうなという説がわいたところのが気になる。どうやって自分の意識が構築されたかについては当たり前過ぎて誰も気にならないし、アイデンティティがこれとなっているが、本当のアイデンティティは言語外にあるような。
はい。おしまい。
おやすみなさい。
良い夢を。