感情とはレトリックなのでは。
22:45から。
帰ってきたら、満月さんが家事を減らしてくれた痕跡が見えてありがたや。
洗い物が減っているし、お風呂が洗われている。出がけで見たときは睡眠モードだったし、今某職場のイベントで疲労がピークなのに動いてくれてありがたや。
僕はこういうのが愛だよねって想っちゃう人。
ちょろいと言えばちょろいのだが、言葉にはあんまり左右されなくなったかも。
言葉による好意ってレトリックだし、言葉はどれだけでも良いように繕える。
あ、どうでも良いが、犬型新人と話しているとき、別に本音を出せている訳では無い。
それなりに話せる範囲は広いのだが、哲学パートのことを話そうとしたら、「小難しい話は要らんです」と言われる。
そういえば、哲学パートの本音を誰かと会話したことが無いかもしれない。
まぁ、哲学パートは別に会話用の言語では無くて内省と探索だから、これを誰かに開示しようとすると、相手の語彙とか世界観に調律するから、オリジナルではなくなってくる。
本当のオリジナルは言語の前にある「感じ」で、それをスケッチしているのが漂流文というのが厳密なところ。
さておき。
お仕事。
店長の「目」があんまり気にならなくなった本日。
自分の業務が多くてパノプティコンみたいな監視をするどころで無くなったという説もあるし、僕が監視の目から離れた説もある。店長の調子が良い日だった説もある。
仕事に行く前、あらゆる心配をして悪い意味でふわふわしている。
これって感情では無い。誰をトレースしているのだろうって考えることにした。
なにせ、僕、1人だと何も心配しないもんで。
別に自分を感情でコントロールしようとしないし、誰かを感情でコントロールしようとするのも僕の手法ではない気がする。もともとそんな手法取ってなかった。
感情がレトリックだというのはこの流れ。
感情とはそもそも何ぞや。
僕の考察めいた妄想だと言語が開発されたときに、ついでにできたレトリックなのではと考えている。
言語の本質は、本来は個別である「感じ」を誰にでも見えるようにすることだった。
基本的には待ち合わせ場所とか、世界に名前を付けて時空を合わせるというのが原初だったと考える。
例えば、あの山は狩りに適しているとかこの山は木の実が豊富みたいなことだと足りなくなって、イノシシ山とか、栗山とか名前を付けて集合場所にできる、みたいな。
で、この流れが発達して、人の中身も可視化できるよなってなったのが感情表現だという説。
まさに喜怒哀楽なんてその通り。
人の内部の「感じ」なんて、本当は喜怒哀楽にきちんと切り分けられるものではないのに、感情はこういうもんだと規定しているのがよろしくない。
レトリックとの疑似性はここにあって、人はだいたい感情によって動きを決めているという決めつけが起こること。これって行動経済学だった心理学だったかのバイアス世界観だと思われる。
たしかに、人って自分以外の視点から照射されないと浮彫りになれない脆弱な存在。
だから、感情で繋がるとか、共通言語が大事とされる。これが人間。
ただ、僕としては、感情表現で人と繋がるのはもはや難しいとは思っている。
というのも、感情って、内部の話だと思っている人が多いと思うけども、結局は社会的な人の型であるという説。最近で言うとMBTIとか。
だから、感情が自分で在るという定義はもうそろそろ遅くなってきそう。
いや、別に感情自体は否定しないのだが、感情によって世界を測るのはどうなのだろうな。
犬型新人にも、感情としてはどうなのと聞かれる。
満月さんにも聞かれる。どれくらいとかの量問題。
僕はそういう世界観に生きていないから、量としての感情の話はできない。
せめて、その感情によって、どれだけ現実的に行動したかみたいな現象問題にして欲しい。
レトリックなんてなんとでもなるから、現象ベースで語りたい。
でも、言葉が世界というか本質だという人が大多数。
たしかに、言葉って本質だと思うが、それと現実は本質が別物だと思っている。
端的に言えば、恋と愛の違い、みたいな。
本日ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。