感情よりも気持ちの方が自由。
22:23から。
朝方まどろみの中で「気持ち」の語用について考えていた。
感情だと定型文になっちゃうけども、気持ちならもうちょっと広いかなとか。
気持ち悪いは自分に向かう、気持ち良いは外に向かうのは何故だろう。
と、空中戦をしていても仕方ないので、ちょっとお仕事の話。
土日はフルメンバーで安泰なはずなのに、結構な不安感。
これって、個々人がどうかというより、人が多いと価値観が錯綜してやりにくいというだけだと思われる。どこに調律しようか迷子になってしまう。
この不安は誰から見られた僕だろうって。
不安は気持ちと言うよりは気分だと思われる。
日本語グラデーションが多くて良い。
重くなるのは気分であって気持ちだとちょっと違う、とか。
あと、僕茶番的な会話があんまり好きでは無い。
満月さんとの私的な茶番なら良いけれど、職場でやられてもあんまり参加する気にならない。職場の会話はあくまで成果に向かうべきなんてことは思っていないけれど、なんだか気持ちが悪い。おそらくやろうとすればできるのだが、それをやったところで職場の人と仲良くはなれない。
これ以上仲良くなる気が無い、閉じた職場劇場に見える。
犬型新人は上手く参戦しているけど、内部で凄くエネルギー遣っているのだろうなと読んでいる。そんなことにエネルギー遣っても、ほとんど返ってこないやでって。
そういう人生を選んでいる節なのかな。
知らんけど。
僕は人との関係には、自分にとって何か返ってくるかより自分がその人と居て楽しいかに全振りしたもんで、友達が居なくなった。友達が居ないと人生が淋しいという相対評価もなんのその。
相対評価と言えば、店長がだいぶ年下のお客様より自分の年収が低くて凹んでいた。
個人的には、楽しく過ごしていればそんなことどうでも良いと思うのだが、比べないと自分を認められないのだろうか、とか。
僕は相対性は知ったこっちゃない世界で生きているもんで、劣等感は時系列上のどこかに置き忘れてきた。想い出したように、この状況は劣等感を抱かないといけないのかなと感情としてのマインドコントロールに合わせてシュンとしたポーズを取るのだが、内部ではどうでも良い。
なんだか辛辣な書き味。
僕は僕で居ることが他人に劣等感を抱かせちゃうなっていう、風景というか光景というか現象にあえて足を取られる傾向にあった。
例えば、僕の料理スキル、おそらく専業主夫になったらパートナーの栄養管理しっかりできるくらいになっているのだが、別にこんなの副産物でしかなくて、いちいちここに劣等感を抱く人とは関係できない。
満月さんは、その辺りがちょうど良い。
結構自分の世界強めな人でないと、僕とは関係できない説。
相対的な世界観だと、自分の世界を補充する為に他人に期待するということになる。
足りないところを相手で埋める感じ。それも良いと思うけども、僕はもうそういう世界観では無い。
僕が期待しているのは、僕が楽になるかどうかでは無くて、当人もっとできるよね、というところ。具体例で言うと、満月さんがお風呂を洗わなくても僕が洗えば良いのだが、ここ3日くらい洗ってくれてありがたや。とか。
完全に一方的で無いと、憤怒氏起きて来ない。
現実の時間も押して来ている。
日記を書き終わったら、洗濯物干して、洗い物をして明日のおにぎりの為の浸水。
そろそろ良い炊飯器買ってご飯を炊く時間はショートカットしても良いかもしれない。
やれやれ。
本の話。
読書家というか、本を読むことが常態化している人の中には、小説と現実の境界が曖昧な人が居るような気がする。僕もそう。
小説の中には、単なる嗜好品では無く、誰かの人生に衝撃を与えるものがある。
人によっては村上春樹さんの「ノルウェイの森」がそれ。
僕にとっては、これより白石一文さんの「僕の中の壊れていない部分」がトラウマ級のインパクトだった。
モテ男が、色んな女性と関係しているという構図と捉えれば石田衣良さんの「娼年」と近そうだが、主人公が見ている世界の殺伐さとしては、白石さんの方が温度が無い。
という感じで読み返してみている。
たしかに分かるところもあるけれど、もうだいぶ経年したから、主人公の考え方に拙さも感じる。この拙さ、一般常識の話では無いから、経年して物語が拙くなるみたいな一般論ではない。
僕が想ったのは、この主人公、人のことを割とどうでも良いと思っているのだが、関係を完全に断ち切るところまでは至らない。相手が賢くないというか愚かだと捉えつつ離れないということは、相手に依存しているよねって。要は、マウント取りたいだけの寂しい人という評価。
経年して、なるほど、そういう精神構造の人も居るよねとなっただけ。
精神構造が世界を決めているという説が信ぴょう性を帯びてきた。
ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。