22:16から。
普通はひとそれぞれ。
昨日やっとこさ「新・家族法 たそがれ時の民法学」がやってきた。
無茶苦茶面白い。
何が面白いって、新たな民法上の知見が得られることではない。
情報としての民法のテキストはいくらでもある。
なんというか、長年研究してきた人の本音(ぼやき)みたいな書きぶりによって、逆に研究対象の本質が見えてくる。
法律って、上辺で見ると結構関数っぽい。
ここでいう関数は正確な数学と定義とは違うかもしれない(専門畑ではないのですみません)が、インプットに対してアウトプットが明確。
例えば、将棋とかチェスとか、静的な遊戯のルールは手番の間の動的な時間が無いから、くっきりルール上の正解と不正解がある。
スポーツだと、動的な時間に曖昧さがあるから、きっちりしているようで微妙な感じ。
機械で計測して客観性を確保したところで、曖昧さは完全に排除できない。
法律界も、一般的には一義的なルールの世界で、AIが早々に参入できる世界という感じなのだろうけども、法律の本質はルールでは無いから、きっと全部AIに処理を任せることはできない。
たしかに、誰が見ても完全にアウト、完全にOKみたいに数量的に把握できる領域はある。
例えば、道交法とか。車界隈はほとんど追跡できるだろうし、人間の目で見る裁量が要らない部分。
一時停止とか、黄色信号で進んでいるかどうかなんて、人を導入して取り締まる領域ではないと思う。ドライブレコーダーを公的機関が有事で無くても取得できるようにすると、プライバシーの兼ね合いで憲法問題になりそうだが、自動車って社会的に移動手段とされているだけで、実質、凶器ではあるから、これこそAIの情報収集で取り締まって良い気がする。
運転が粗い人は一律で摘発して、個別事情を人間が判断する方が良いのでは。
なんだっけ。
民法研究者のぼやきとか言ったら、この本の7000いくらという値段を侮辱しているとも読まれそうだが、本の価値と、書くときの姿勢はそんなに連動しなくて良いし、高い本だからきちんと読まないといけないというのも違う。
前書きを読んでいるときに、この人、民法という学問領域に愛着があって、ちょっと擬人化して捉えるようになるのだろうなと。
個人的には、学者のそういうところが読みたかったもんで、とても面白い。
知識は着いていけなくても、同じ人間だから、人間味が美味しい。
そうして、人間。
同じ空間で長く過ごしたから愛着がわくという感覚、どこから来ているのだろう。
僕は物理空間より精神空間の方が大事と想うから、本を生生しく読める。
本を読めなくなった大人の話は良く聞くのだが、これって時間が無くなった訳では無くて、存在としての距離感で本が不要になった人が多い気がする。
大人の方が自分の時間は自在なのに、本が読めないというは、本に臨場感とか劇場観を感じなくなったからという説。
情報収集の為の本では無くて。
情報収集の為に本を読まないといけないなんて言う人の意見は遅いから聞かなくて良いけど、情報源がネットしかない人は速すぎて浅い。
もうちょっと書きたい気分だが、眠いのでここまで。
ここからの多様性で生き残れる人は、相対的な自己ではなくて、絶対的な自己に辿り着いた人な気がする。
知らんけど。
おやすみなさい。
良い夢を。