23:26から。
うえ、あと34分しかない。
いや、34分って結構永いか。
朝一から休日直行直帰で1瞬お仕事。
お客様と会ったのだが、客層が良いというかかなり収入的に余裕がある層なので、個人的に気楽だった。余裕がある人は他者を見下さないし、なんならこちらのことも気にしてくれる。
ちょっと思ったのは、僕はこちらの層に居る人なのではなかろうかということ。
他者との相関で自己存在を確保していないし、なんならもっと色々やって良いし、自分を試行錯誤して良いのではと思っている。
僕が今ここなのは、僕の責任なのだが、相関で存在する人にお付き合いしてきたからという気がしてきた。
例えば、僕は昔、自分が居ないところで自分のことを語られることがすんげぇ嫌だった。それほど昔の話でもない。会ったことがある人が好き勝手僕のこと評価していることに対して、ほんとうはそうじゃないと思う。これって凄く恥ずかしかった記憶があるのだが、分析してみると、実は良くワカラナイ。
ちゃんと考えてみたとき、刹那でしか接していない人とか、仕事場の仮面でしか接していない人とか、畏まった関係しかない人に自分の本質なんて把握できるはずがないのに、なんでそんなてきとーに一部分しか見ていない人の評価で一喜一憂しないとならないのだろう。
そういえば、悪口。今の僕は、現実的なところ誰に低評価されても特に気にならなくなってきた。何故かというと、別に相手からの評価で存在を認証させるようなメカニズムでも無いし、言葉での評価って勢いみたいな水物でもあるから、いちいち気にしてもいけない。
誰かから何かを言われていちいち気になる人って、そこに対して何か罪悪感があるから、悪口を言われているという気分になるような。自分に後ろめたいところがなければ、誰に何を言われても何にも影響されるべくはない。
たしかに、日本社会って慎ましいけども、変な恥の文化があって、恥ずかしいという意味合いで劣等感を持てみたいな相対的な価値観がある。生活保護は社会の底辺として見下すとか。僕の見解だと、生活保護は社会が整備したシステムだから、これを利用できるような状況の人は使えば良い。色々不便はあるけども、図書館に行って本を読むことができるし、僕がそうなってもあんまり気にしないかもしれない。
もう、時間。
余裕と似たようなところで、最近、「許容範囲」のことを考えている。
僕は割と広く深く許容範囲の器を持って生まれ落ちてきたと思っている。
なにせ、人に何かをするときに対価を気にしない。
だもんで、人生劇場の歴史で、凄く足を引っ張られてきたんだなと思っている。
別に個々人に恨みつらみも無いけれど、懐かしいからまた再会は無いとか。
で、我が職場の働きにくさは、僕の許容範囲がごりごりと削らていくことにあるという解釈。
これってエリア店長との面談でも話せることでは無い。
僕は、自分に対して何かをしてくれる人には同じことを返す質だから、その持ちつもたれつの関係があれば、割と安泰。ただ、自分が動かずに、リモコンみたいに僕を捉えるひとはやばい。その生活、僕じゃなくてAIルンバみたいなので良いよねって。
余裕が無い人って僕を道具のように捉えるのだよな。
この先、僕は店長と話すことがあるのだろうか、いや無いか。
年々と変化している。
おやすみなさい。
良い夢を。