観劇側の人

22:10から。

ちょっと調子が良くなってきた。

明日は試験なので、早めに寝ナイト(そんな気は一切無い)、

調子が良いと、どうでも良い思索が捗る。

あと、外からの目もどうでも良くなる。

いつもこれだと、俗離れしてしまうから、バイオリズムとして周期的に周波数を下げてしんどいフリをしているだけなのかもとすら思っている。

ほんとうにしんどかったら、行動制限というか、邪気が溜って体調不良になる。

今、それが、てんちょーと犬型新人。てんちょーの方がもはや人生劇場で背負った業みたいなもので僕がどうこうするでもないが、犬型新人の仕事場でのしんどさは、和らげることができるような気がする。

どうでも良い、いや、本筋から外れてはいない話。

本日、50歳くらいのお客様(男性)に実年齢を話したら、「ベビーフェイスですね、30歳くらいかと思った」と言われた。

僕はそんなに喜んでいない。むしろ、当人の脳内をバグらせてすみませんという気分。

人って年相応で見られたい人も居るし、若く見られたい人もいるが、これって「どう見られたいか」というよりは、年齢というか年代の上下関係の序列を問題としているような気がする。

若いと許されることが多い分、嘗めらるしちやほやされる。経年していると肉体は衰えているけど、他者から敬われるみたいな。

個人的にそこはどうでも良い。今日のお客様に対しても、お客様だから敬うのではなく、人だから敬うだけであって、年齢差という「たまたまいつ生まれたか」の色眼鏡で人を見ていない。

このお客様、僕からすればあくまで普通の範疇なのだが、経年乙女は嫌いらしい。

この年齢にして、親と経済関係があるのがどうも気に食わないとのこと。

いや、人の人生なんてそれぞれだし、外から当人のものさしであれこれ否定する方が、僕としてはキモチワルイ。なんでキモチワルイかというと、誰かの人生に傍観者目線で人のことをあれこれ言う人は、自分の中にあるキモチワルサを他者に投影しているから。

極論、セミの人生はキモチワルイかもしれないけども、当人にひっかりがなければ気にならない。いや、こういう意味合いで傍観的に口を出しているだけという説もある。こういうのも嫌。

僕がてんちょーやら経年乙女を嫌がっているのは、当人の人格がどうのでは無く、単に仕事上の不均衡やら不合理やら不平等が生じているからというだけ。場が変われば、覚えているだけで何の呪詛も無い。こういう人も居たよなぁというだけ。

僕は一応、ちゃんと仕事をしに行っているので、楽したいとかは無い。

楽しみたいのに楽しめないのが嫌だという意味合いだもんで、自分が動く気も無く単に傍観者として上層部の不備を愚痴る人とは合わない。

でも、そんな有象無象の人(言い過ぎ?)でさえ、空間が近いと影響されてしまう。

いや、こんな空気くらい壊せるのか? 空間に居る人の脳をバグらせるのか?

ともあれ。

スピリチュアル界隈では、曰く、250年続いた地の時代から、5年前くらいに風の時代に移ったらしい。

実際どうなのかなんて検証できないけど、「引き寄せの法則」がもう古いという話が面白かった。僕の解釈を含めて書くから、原典が気になる人はYouTubeへ。

引き寄せの法則って、自分の願いが考えるだけ叶うみたいなことだったけど、そもそも地の時代の人って本当の自分まで辿りついて居ないから、願いが欲求まみれで地球が重くなっちゃたとのこと。

まぁ、人の想いって質量は無いけども、エネルギーというか波長ではあるから、なんとなく言いたいことは分かる。

で、時代が変わったから、サブスクとかカーシャアみたいな、共有的な世界観になっているのも分かる。僕も物体を家に確保するのは無理ゲーだと思っているから、とりあえず書庫(物置き)の本を捌かないといけない。

で、風の時代の引き寄せは、自分を大きな存在に委ねること、感謝の精神でいること。

これで、当人がほんとうに求めているところに勝手に流れると。

大きな存在に委ねるためには、いまの自分の状況は自分が選択していると認めることらしい。僕はここ、納得できる、波乱万丈な方が楽しいと感じている節があるもんで、致し方ないよなと。

自分が選んでいれば老けない説を実践している。

スピリチュアル界隈は、新興勢力なのだが、そもそも「個人主義」ってなんだろうなと疑問が起った。これに答えられる知識人ってどれだけいるのだろう?。

ウィキペディアさんとかでちょっと調べたし、法律学(特に憲法学)がこの思想を前提としているもんで、個人主義も時代遅れなのではという気分。

もともとの個人主義は、社会の権威主義(民衆はどれだけでも国家に使用するもの)に対抗するために生まれたらしい。共産主義とか社会主義の対義語として。ただ、なんとなく資本主義にすり替えらている気がするのはともかく。

で、もっと遡ると、個人の感覚は人間が存在を始めた原初にある。

アリストテレスさんとかも個人を問題としていた。

もう時間が無いので、あんまり書けないのだが。

この時代の僕は、個人と他人の境界なんて無いだろうなという気分。

尊厳されるべき個人は境界の垣根は無いし、この個人が個人であるという存在観は、社会からの分離というは分断だったのだろうなという気がする。

個人の精神の中に、部屋なんて無いのよ。

この話はもうちょっと詳しく書きたいのだが、ここまで。

おやすみなさい。

良い夢を。

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