22:43から。
お風呂読書。
谷崎潤一郎さんの「猫と庄造と二人の女」を読み終えた。
それぞれの登場人物の心情を察するというより、それぞれがなんらかの官能のメタファーみたいな感じ。なんなら猫ちゃんが一番官能豊かだった。
最近、存命の人の小説があんまり読めなくなった。
このフレーズで、「ノルウェーの森」の永沢さんが発想されるような人は、お友達になりましょう。
坂口安吾さんでも読むかと探っていたら、中井英夫さんが出てきたもんで、読むことにした。
なかなか難解だが、最初読んだときよりは読めるようになった気がする。
この、前読んだら良く分からなかったことが、今は読めるようになったという成功体験が人生劇場の醍醐味。
せっせと本を読めば、認識が拡がる。
ただ、読書って、自分が今で良い(気に食わない自分のままでいい)人には向かない所業。
本気で読むと自己(エゴ)が揺らぐ。
さておき。
お仕事というかなんだろう。
僕が最近刷新した習慣。
お風呂に入った後は、きちんと髪をドライヤーで乾かす。
自然乾燥でも良いかなと思っていたのだが、普通に考えて、自然乾燥させるとカピカピになちゃうなと、実践を改めている。
効果は、きっとぼちぼち。
人の習慣って、当人の中で効果が無ければ淘汰されるし、あれば続けられるのだろうなと。
ここで言う効果は客観ではなく、あくまで主観の話。
僕の読書習慣だって、客観で観測される水準で何か効果がある訳でも無い。
本を読む人なんて、もう絶滅危惧種というか、本を読んでいても娯楽体験で読んでいる人が多いし。
ただ、気になることがあって図書館に行って本を漁ることがイマドキできるなんて、最高な時間の使い方。
習慣の定義は、勝手に無意識が続けているからエネルギー消費が無いホメオスタシスの方向と、負荷がかかっても、楽しいから続けられるという矛盾した両極がある。
僕が想っているのは後者の面。
例えば、一般的には家事って誰もしたくないから、負荷として捉えられている。
僕としては、心のお掃除とか補充とかと捉えるものだとしつつあり、元気があるからできるとか、無いからできないという話ではないと思ってきた。
特に、料理なんて脳トレと同じ感じ。
食材と調味料が我が家にどれだけあるかという記憶と、実際にどう組み合わせるかという作業の効率化と。
僕がこうやってゆっくり日記を書けるのは、家事労働を効率化しているから。
この先は、まぁ良いか。
やれやれ。
そうして、お仕事。
てんちょーがマイルドになっている。
ただ、このマイルドてんちょーの習慣は続かないと思われる。
なにせ、言っていることが、僕が入社した当時と全然変わっていないから。
おそらくだけど、当人の過去の成功体験が前提にあって、アップデートされていないから、その通りにやれば成功するよとなっている。この話、受け手がどうやって成功するかを腑分けしないといけない。
寄り添っているようで、なんも寄り添ってないアドバイス。
なんなら、経年女子が言うことも変わっていない。
人の落ち度に対して、鬼の首を取ったように上から目線で気を付けてねって言う。
この女子、職位的に事務を統括する立場であって、先に雪かきをする能力も経験もあるのに、そこをせっせとしたところで給料にならないからやらないのだろうなって。
優しくない人達。
まぁ、こんなのは、当人の劇場の余裕でしかない。
自分がしんどい劇場を過ごして居ると思っている人は、他者に公私で愛を垂れ流せないし、割を食うのが嫌だとなる。
僕がこの世界観だったら、世界が割に合わないとしてとっくに退場している。
優しくないのはどうでも良いけど、お仕事場なんだから生産性くらいは気にして欲しい。
どんな人もトップ以外は駒だから、ちゃんと駒の役割くらいは担って欲しい。
ここで想うのは、思考とか気持ちとかの当人の内部と、行動とか実践の溝を埋めるために言葉を遣う人とはあんまり合わなくなってきたということ。
感謝の言葉も謝罪の言葉も大事だが、言葉だけを飛び道具みたいに使ったり求めたりする層の人が居る。
喩えば、「好き」って、世界が離れているからこその言葉だと思う。
好きな人の為に何かしたいのもメルヘン。だって、観念が現実的でないから。
それを習慣付けられるようになったらもはや愛になる。
実践になっているから。
僕にはそんなに溝を埋めるための言葉の用意がないから、聞かれても気持ち上の言葉を返せない。実践で表現してないかって。
同じ標準で実践してくれた後に出てくるのが言葉じゃなかろうか。
これが普通とは思っていないから、この感覚に着いて来られない人はワクワクしてこない、というだけ。
ここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。